愛しよし、我家の方ゆ、雲居立ち来も
倭は、国のまほらま、畳つく、青垣、倭し麗し
命の全けむ人は、畳薦、平群の山の、白橿の枝を
髻華に挿せ 此の子
この小碓尊は、後に遠征中に非業の死を遂げることで様々に語り継がれ、日本童男(大和国の怪男児)とか日本武尊(大和国の猛者)等と呼ばれるようになった。幼い頃から腕白で、大人になると体格も立派になり、怪力となった。
三年の春二月。紀伊国(和歌山県)に出向いて諸神を祭祀しようと占うと、不吉と出た。それで出発を取りやめ、遠縁で屋主(一家を形成して長となっていた意)の忍男武雄心命を派遣して祭祀を任せた。あるいは武猪心ともいう。忍男武雄心命は阿備の柏原(ともに不詳)に出向いて祭祀を行い、そこに住み着いた。そして九年目、紀直の遠い祖先の菟道彦の娘の影媛との間に武内宿禰が生まれた。――後段に第13代成務天皇と同日に生まれたと見える。その縁もあり、武内宿禰は重用され、大和政権の重鎮、一族のご意見番として大いに活躍する。
「斧鉞の権」というのは、要は死刑執行権であり、賞罰権であるということです。 |