祖母の話を書いたばかりの時に、あまりに偶然に叔父が亡くなった。

こわいくらい偶然だし、時期も全く同じだったので。

 

この祖母には母を含め四人の娘がいたのだが、全員が全員幸福だったかは疑問だ。

自分からみて一番かわいそうだと思ったのはこの亡くなった叔父の嫁になった三女のおばである。

 

建築家の祖父の血をひいたのか、画才に溢れ、書にも優れた。戦後のもののない時代、母が勤めていた幼稚園のために紙芝居を描いてくれていたが、それはそれはまさに天才的なデッサン力で、ウサギとかめなら兎が動き出しそうだし、空襲で焼けてしまった広大な庭にあった草花を覚えていて、まるで本物のような葉脈一本一本に至るまでの野原の風景など、今でも鮮明によみがえる。

 

ただこのおばは病弱であったため、戦時中、母たちが庭を畑にしたり、闇市で食料を調達することはできず、安静に養生していることが多かったようだ。

 

のちにおじと結婚するのだが、おばが病弱だったからかもしくは今でいう男性不妊であったからか、二人は子宝に恵まれなかった。

これは二人の人生に決定的な悔いとなったと私は今でも思っている。

不妊治療ができる時代でもなく、何度となく養子が欲しいという話も耳にした。

だが壮年になるまで、結局養子はもらわなかった。

 

二人だけで過ごす母の日や父の日、こどもの日、一度ももらえないカーネーション、

つらいことと思う。

 

自分が不妊治療をしたことがあるので、子供のない人生の選択がいかに彼らにとっていろんな思いを与えたかは想像できる。

 

おじは80代になってとうとう養女をもらう。それも中国人。

中国人に偏見がないといえばうそになるので正直に言う。

最初のきっかけは残留孤児のボランティア活動からだったそうだ。

おじは戦時中満州の満鉄のおぼっちゃんで、大連生まれの大連育ち。

その彼は中国への愛着と子供がいない寂しさから、その残留孤児の子供を養女に迎えた。

「おかあさん」「おとうさん」、この私たちにとって当たり前のように聞こえることばがどうしても聞きたくて、養子縁組に踏み切った。

 

では中国人の方はどうだろう?本当にお父さん、、お母さんと思っていただろうか?

 

穿った見方で反論もあるだろうが、結局は日本国籍と財産目当てとしか思えない。

 

このおじの葬儀に参列したのは養女とその財産目当てで結婚した日本人、養女の実母と実姉、それと私だけ。

 

私はおじの棺にカーネーションとおばたちの写真を入れた。泣いたのは私だけだった。

誰もが「死んでくれてやっと遺産が手に入る」という空気しかなかった。

 

なんてむごい最期?

 

子孫に美田を残すなという。私は今中国の侵略に怯えている。