健康な頃の真知子なら、小さなアパートの断捨離など、2~3日で終わってしまうような作業だったが、少し片づけては、休み、なかなか進んで行かなかった。けれど、目標を持って、毎日体を動かす事で、真知子の鬱々とした精神状態は落ち着きを取り戻し、固まったような体もほぐれてきた。自分一人では、動かせない荷物や不用品の廃棄について、佐伯さんに相談した。教会だけでなく、近所に顔の広い佐伯さんのおかげで、真知子の周りには、たくさんのサポート役をかって出る人が増えた。真知子には意外だった。

 

「世の中って、こんなにも、善意にあふれていたんだ」

 

 何も恩返しのできない事が心苦しかったけれど、自力ではどうにもならない真知子は、一人一人の助けが本当にありがたくて、時には涙しながら、深々と頭を下げた。

「本当にありがとうございます」

手伝った方にしてみれば、それほど感謝される仕事でもなく、こそばゆくもあったが、真知子の「ありがとう」によって、自分が良い人間になったような気がしてくるのだった。そして、けして憐れみではなく、

「真知子のような立場の人間が、日々、頑張っているんだから、自分は、もっと、頑張れるはずだ」

そんな風に、気づくのだった。佐伯さんの指示がなくても、夕飯のお裾分けを届けてくれたり、

「買い物に行くけど、ついでに何か買ってこようか?」

などと声をかけてくれたりする人達が増えて行った。

 

 真知子は、杖を頼りに、家の周りを、リハビリウオーキングするようになった。始めは、上手く行かなかった。すぐ近くの公園まで行ったもの、疲れはてて、ベンチにへたり込んでしまった。元気な頃は、気にもかけなかった「歩く」という事。公園からアパートまでの帰路は、まるで万里の長城みたいだ。真知子は、ベンチに座り込む自分が情けなかった。思い通りに動かない体が、もどかしい。うつむいて、公園の芝生を眺めているうちに、ぽたりと涙が、ズボンの上におちた。そんな真知子の姿を、近所の人達は、目にしていたが、そっと見守るだけで、気付かないふりをしていた。けれど、真知子はリハビリを止めなかった。少しでも体力をつけて、拓也のために、夕飯を作れるようになりたかった。以前のように歩く事は叶わなかったけれど、真知子の歩ける距離は伸びて行った。亀のような歩みでも、ゆっくり歩を進めて行けば、目的地へたどり着ける。真知子は、だんだんと、元のように歩けない自分を嘆くよりも、わずかでも、まだ歩ける事に感謝するようになった。せかせかと歩いていた時には気づかなかった事がたくさんあった。春先のそよ風は、かすかな沈丁花の香りを運んでくる。風や香りは、それを感じていた時の懐かしい思い出を運んでくる。同じ道を、手をつないで歩いていた時の幼い拓也の手の感触がよみがえってくるようだった。春の日差しの中で新緑がきらきらと輝いている。四季の移り変わりの中で、自然が見せてくれる姿は、命そのものだ。

「自分が、自分が」

と、抗う事さえしなければ、自然の姿が教えてくれる。

「生と死をあわせ持つ、この私も、自然の一部なんだよ。そのままでいいんだよ」って。

 

 気取らず、ありのままの笑顔を見せるようになった真知子に、声をかけてくれる人は、どんどん増えて行った。人は、それぞれに、違った特技や知恵を持っているものだ。アパートの大家さんに掛け合って、風呂場やトイレに手摺を付けてくれる人もあれば、役所に介護認定をやり直してくれるように、掛け合ってくれる人もいた。

 

「幸せって何だろう?」

真知子は思う。

「不幸のどん底にあるような、今の私だけど、以前の私は、些細な日常の中に、こんなに強く幸せを感じていたかしら?人の幸せを心から願う事ができていたかしら?人のあたたかさを感じる事、感謝をする事があったかしら?」

「人生がなにもかも、思い通りに叶えられたとしたら、意外とつまらない人生かもしれない」

そんなふうにも思う。

 

 恵まれた日々の中で、人は幸せを意識しない。当たり前の日々を失ってみて初めて、気づくのかもしれない。