「奇跡」というのは、大切な人を想う気持ちの事なのかもしれない。

「自分には、もう未来はない。だとしたら、痛みや不自由になって行く体に耐える日々に何の意味があるんだろう?」

そんなふうに思って、希望を失っていた真知子だったが、天涯孤独になってしまう拓也の事を考えると、背筋が伸びた。

 

「私は、まだ生きている。まだ動けるうちに、一つでも、拓也のために、できる事をしておこう」

 

住み慣れた、このアパートだけど、自分がいなくなったあと、拓也がここに住み続ける利点はない。もっと、通学に便利で、家賃の安い下宿へ移った方がいい。それに自分がいなくなれば、思い出のつまったこのアパートは、拓也にとって、つらいだろう。

 

「拓也がすぐに引っ越せるように、余分な物を処分しよう」

 

体力がなくてもできそうな、書類の整理から始めた。日頃から、不要な物をため込まない真知子だったが、一つ一つ確認して行くと、不要な印刷物で、古紙を入れる四角い袋はすぐに一杯になった。必要な書類を、拓也がすぐに取り出せるよう、付箋をはさんだり、メモを貼りつけたり。拓也の「幸せ」を願いながら、断捨離を進めて行く作業は、真知子にとって、「死」受け入れ、「自分の人生を振り返る」作業でもあった。

 

「思い出箱」と書かれたダンボールの中には、まさに、たくさんの思い出が詰まっていた。

「お母さんへ」

幼い文字で書かれたバースデイカードの中身は、拓也の母を思う気持ちで満ち溢れていた。

「ごめんね拓也」

拓也を一人きりにしてしまう自分が、情けなくて、申し訳なくてならなかった。それなのに、このところずっと、残される拓也のつらさを思いやるゆとりすらなく、自分は、絶望の中で、自殺を考えたりしていたのだ。思い出箱の中身は、母子二人で、手を取り合い歩んできた歴史そのものだった。いじめや受験も乗り越えてきた。乳癌が見つかった5年前は、拓也に支えられ、乗り越えてきた。そして、今、拓也は21才になった。つらくても、きっと、母の死を乗り越えて、一人でも、生きて行ける。

 

「私という命が何のために、この世に使わされたのかなんて、わからない」

 

真知子は、ふと、神父が話してくれた「種」の話を、思い出した。

「宝石のように美しい『種』を、美しいまま保存して置けば、永遠に、一粒の種のままだが、種が畑に播かれ、種としての命を失う事で、たくさんの命が繋がって行く」

 

「等身大の自分自身を見つめ直せば、私は母として、畑に播かれた種のような役割をはたせたと思う」

 

また、自殺した夫の事で、自分を責めたり、夫に怒りをぶつけたりしたきた。15年という月日が経ち、自死ではあるけれども、それは、外見からは、わからない「鬱病」という、一つの病だったのだと、理解し、夫の事も自分の事も許せるようになった。でも、それは、拓也という存在が、支えになってくれたからだ。その拓也に、自分が最後に残してやれるものは、最後まで、投げやりにならずに闘病を続ける事だ。そして、もし、自分の今の状態が「鬱病」なら、きちんと治療を受けよう。 

 

ある時、佐伯さんが、その「種の話」を絡めながら、身の上話をしてくれた事があった。佐伯さんは、かわいい盛りの小学生の一人娘と夫を、同時に事故で亡くした。

「人間は、弱い者ね。長い間、後追い自殺をしようと思っていたわ。人は、つら過ぎる現実を、そうすぐに、受け入れる事はできない。思いやりから出た言葉も、素直に受け入れられないし、自分だけが、誰よりも不幸に思えて、周りの人を妬んだり、神様まで、恨んだわ。でも…真知子さん、それでいいの。自分の醜さや悲しみを直視して、初めて、悲しみの中にいる人の気持ちがわかるようになる。私には、真知子さんのように、残せる血縁もないけれど、何か、絶望の中にいる人に、そっと、寄り添えたら…それも、繋げて行く命なんじゃないかって…」

 

その話を聞いて、真知子は思わず、泣きながら、佐伯さんに抱きついた。

 

佐伯さんのようには行かないけど、本当にささやかだけど、今の私にできる事をしよう。拓也のために、一日でも長生きして、拓也と過ごす時間を大切にしたい。

 

人生に失敗なんてないわ。その都度、一番いいと思う選択をしてきたんだもの。間違えた道を歩き始めていたなら、いつでも、やり直せばいい。心がぐらついて、後悔を感じる事があったとしても、時を巻き戻す事はできない。描いてきた軌跡が、私の人生。たった一度きりの私の人生