時々、教会へ顔を出すようになった真知子は、佐伯さんと親しくなった。ある日、ベルが鳴り、玄関を開けると、佐伯さんが立っていた。

「ちらし寿司を作ったのよ。お寿司なら、召し上がれるんじゃないと思って。少し何か食べないと、元気でないわ」

「まぁ」

差し出された小さな風呂敷から、ほのかに、甘酸っぱい香りが漂ってきた。

「私、何だか申し訳ないわ。いろいろして頂くばっかりで、本当にありがとうございます」

「いい真知子さん、申し訳ないなんて思うも事ないのよ。人は、多少、心ある人なら、誰かの役に立てる事が、嬉しいものよ。でもね、してもらう方はどうかしらって思うの。心ある真知子さんのような人ほど、申し訳ないって、思うんじゃないかってね。私が、あなたにしてあげた事より、あなたの『ありがとう』の言葉のほうが、尊いものなのよ」

佐伯さんは、煙にまくような言葉を残すと、あっという間に帰って行った。

 風呂敷をほどくと、重箱が現れた。蓋を開くと、鮮やかな色彩が飛び込んできた。錦糸卵、花形の人参、レンコン、きぬさや。二段目には、食べやすくカットされたオレンジとウサギのりんご。

「頂きます」

乾いた土に水がしみ込んで行くように、真知子の体は、反応した。

「死にたい」と思う心とは別に、「命」は叫んでいる。

「生きたい」と。


「美味しい」

ポツリとつぶやくと同時に、涙が、ぽとりと、重箱の中に落ちた。結婚と同時に、ひたすら、誰かのために、食事を作り続けてきた。失敗した時に指摘される事はあっても、特に感謝される事はなかった。こんな風に、自分のために、食事を作ってもらう事なんて、何十年ぶりだろう。

 

 

 誰にでも、平等に夜明けは訪れるのに、そのとらえ方は、一人一人違う。これまで、眠りから覚め、朝を迎える事など、当たり前の事としか思わなかった。けれど、夜の闇の中でもがき続けるうちに、闇が明ける事など、二度とないんじゃないかとすら思えてくる。

 漆黒の闇の静けさの中で、真知子は、生まれて初めて、自分自身の鼓動のリズムに聞き耳を立てた。心の痛みや絶望感とは別に、そのリズムは、力強く絶える事がない。ナノサイズの癌細胞まで含めて、私という体は、一つの巨大な宇宙だ。逆に、地球を、一つの星という生命体として捉えれば、この私は、小さなナノサイズの細胞の一つに過ぎない。

 闇は、漆黒から藍へ。やがて、かすかな街の輪郭が現れ出る。浅葱色の空のかなたに山の稜線が浮かび上がる。小鳥達が朝を告げる。変化して行く空の様子を、こんな風に、見つめ続けたのは、生まれて初めてだった。

 地球の鼓動と自分の鼓動が、織りなす一本の糸のように重なり合う。うねるようなリズムが迫ってくる。真知子は、頬を伝う涙を拭う事もせず、たたずんだ。

 

「私は、今、生きている。生きて、こうして、新しい朝を迎えている。描けない未来なんてない。たとえ余命わずかだとしても。積み重ねる『今』こそが、未来なんだ。さあ、笑うのよ、真知子。無理にでも、笑うのよ。自分のために、拓也のために」