けして大きくはない敷地に建てられた教会だった。真知子が幼い頃から、同じたたずまいを見せている。ゴシック様式ながら、簡素な造りで、中庭の奥に司祭館がある。
聖堂へは、誰でも自由に入って構わない事を、真知子は知っていた。階段を上り、古めかしい木の扉に手をかけた。
「ギーッ」
思ったよりも重い扉が、音を立てた。社会というものの全ての喧噪を遮断する静寂が、真知子を包む。
「コツ、コツ、コツ」
いつも、気づく事すらない、自分の足音にとまどいながら、真知子は正面にある祭壇へと進んだ。ベンチが一体になっている聖堂独特の机が、何列も並んでいる。一番前のベンチに真知子は腰をおろした。祭壇には、大きな聖花が飾られ、キャンドルがまたたいていた。
両脇のステンドグラスから、こぼれ落ちる万華鏡のような光が真知子を包む。誰もいない聖堂の中で、祭壇の正面に掲げられた十字架を見上げた時、ばつの悪い後ろめたさのような感情が、真知子の胸の奥でチクリとした。
真知子は十字を切り、幼い時からそらんじている「主の祈り」をとりあえず唱えた。そして、何を考えるというのでもなく、たたずんでいた。ふと、ステンドグラスへ目をやると、悲しそうなマリアの顔が浮き上がってきた。嗚咽が堰を切った。
「かわいそうな私。運の悪い私。気楽に生きている同年齢の女性より、ずっと、頑張ってきたのに…どうしていつも私なの?夫に自殺されるのも、この若さで乳癌になるのも…もう、長く生きられないのだとしたら、こうして苦しむ日々に何の意味があるって言うの?」
「何か、お力になれる事はありませんか?」
突然の気配に驚いて顔をあげると、若い神父が立っていた。くりくりとした大きな目、日焼けしたような肌の色、微妙な訛りが、日本人ではないアジア系の人である事を告げていた。
「スミマセン、私、ここの信者じゃないんです。」
「かまわないんですよ。教会は、みんなの場所ですから」
訛りはあっても、神父の日本語は流暢だった。
「よかったら、隣のロビーで、お茶でもいかがですか?」
ロビーにあるソファーに真知子と神父が腰を下ろすと、事務室と書かれたドアが開いて、佐伯さんという、クリスチャンらしい善に溢れた感じの年配の女性が、お茶を運んできてくれた。その面影は、真知子が幼い頃、世話になったシスターに、よく似ていた。
「子供の頃、いつもこの教会の前を通って、近くの聖静小学校に通っていました」
「聖静小学校は、カトリックの小学校ですね?」
「ええ、そうです」
「だから、なつかしくて」
ゆっくりとお茶を飲みながら、ロビーの大きなガラス扉の向こうに見える景色に目をやれば、それは、四十年前とあまり変わっていないように思えた。
「未来に溢れていた子供時代に戻りたい」
子供時代と、今、自分が置かれている厳しい現実との落差を思うと、真知子は、また、泣けてきそうになった。
神父は、そんな真知子に寄り添うように、優しい視線を送るものの、何も尋ねなかった。
「私、乳癌なんです。乳癌がわかったのは4年前で、ショックでしたけど…前向きに闘病してきました。母子家庭なのでね、息子のために『がんばらないと』って…」
「でも、先週、再発がわかって…もう、末期ですって」
震える声をだましながら、話したものの、涙は、ぽたりと、スカートの上に落ちた。
「お医者様は、なんて?」
神父は言った。
「厳しい状況だって…」
「神父様、神様は、どうして、私のように、真面目に頑張っている者に、次々試練を与えるんですか?私が何か悪い事をしましたか?もっと、いい加減にいきている人はたくさんいるのに、みんな恵まれている。神様は不公平だわ」
叫ぶような真知子の質問に、神父は答えなかった。
「息子さんは、何才ですか?」
「二十一才です。大学生で一人暮らしをしています」
「息子さんは、力になってくれそうですか?」
「私、仕送りもしてやれなくて…息子にもう、これ以上負担をかけたくないんです」
「でも、家族は、大変な時、助け合わないと」
「そうですね」
「あなたの家は、この近くですか?」
「バスで二駅です」
「そう、なら、ぜひまたいらっしゃい。私でよければ、いつでも、悩みを打ち明けて下さい」
「ありがとうございます」
「それから…」
と、神父は真知子の目を、まっすぐに見て言った。
「神様は、あなたの事を、愛しておられますよ」