麻酔、手術、造影剤、抗癌剤、それらを受ける前には、承諾書にサインが必要だ。数ページにわたる説明書には、起こり得る副作用が羅列されている。読み進めて行くうちに、怖しくなってくる内容だ。しかし、その終わりの「これらの副作用が起きるのは一万人に数人程度の割合です」の一文に「それなら、自分には、そんな副作用は起きないだろう」と安心して、サインする。サインした以上、何が起ころうとも、自己責任というわけだ。 

初めての抗癌剤治療の予約の日がきた。真知子の心は、脱毛や吐き気といった副作用への不安を感じながらも、これで、癌が縮小するかもしれないという期待感の方が大きかった。一昔前までは、真知子のような末期癌患者は、入院して、抗癌剤治療を受けるイメージがあったが、今は、外来で行う。化学療法センターの扉を開けた真知子は、驚いた。ずらりと並んだベッドはいっぱいで、車椅子等を利用している末期癌らしき人達がたくさんいる。

「私だけが、癌で苦しんでいるってわけじゃないんだ」

真知子は妙に勇気づけられる思いがした。

 

 初回投与時は、心電図計を装着。血圧、体温を測定した後、名前を確認。さあ、いよいよ、抗癌剤の点滴が始まった。2回目以降は、30分で落とす点滴だが、初回は、90分をかけて、ゆっくり落として行く。

「御気分が悪くなったりしたら、すぐに、ナースコールを押して下さいね」

看護師さんは、優しくそう言って、ベッドサイドのカーテンを閉めた。

「ふうぅ」

真知子は、軽く息を吐くと、点滴を見つめた。

「効いておくれ。抗癌剤よ。癌が小さくなりますように」

しかし、ほどなくして、祈りとは逆に、真知子に、異変が現れた。

「何だか、左脇腹が痒い」

痒みは、あっという間に全身に広がった。と思う間もなく、心臓が、どくどくと、叫び声をあげた。息が苦しい。首にタオルを巻かれ、締め上げられているみたいだ。頭が拍動で痛い。脳の血管が切れそうだ。真知子は、枕元に転がっているナースコールに手を伸ばした。が、腕は、すでに、自分のものではなくなっていた。上手く動かない。すぐ脇にあるナースコールを上手くつかむ事ができないのだ。

「誰か、助けて」

真知子は、点滴台のすぐ脇に置かれていたワゴンを、全ての力をふりしぼって倒した。

 

「ガシャーン」

「清水さん、どうしました?」

看護師は、真知子の真っ赤に腫れあがった顔を見た途端、近くにいたもう一人の看護師に叫んだ。

「先生を呼んで。アナフィラキシー、緊急」

あっという間に、たくさんの医師、看護師が集まってきた。抗癌剤の点滴は、別のものに差し替えられ、わけもわからぬまま、注射を打たれた。ペンライトで喉をのぞかれ、気道が塞がれていない事を確認すると、酸素マスクを充てられた。

「自分の名前、言えます?」

「御家族は、病院の中にいます?」

呼吸が苦しくて、真知子は、上手くしゃべれなかった。だが、周囲のやり取りは、鮮明に聞こえてくる。

「アドレナリンは打った?」

「打ちました」

「ポララミンとステロイドの点滴は?」

「今、準備しています」

「急いで」

「はい」

「先生、血圧が、上、100切ってます」

「まずいな」

手足が氷のように、冷たくなってきた。

「私、このまま死ぬんだろうか?癌で死ぬんだとばっかり思っていたけど…命って、こんなに、あっけないものなの?拓也ごめんね」

 

 真知子の体は、持ちこたえた。発疹は、徐々に消え、呼吸も安定してきた。

「もう、大丈夫だと思うけど、清水さんは、一人暮らしだし、取りあえず、今日は、一泊入院しましょう」

空きのあった、内科病棟へ運ばれた。貸し出された寝間着に着替えた。袖を通した途端、名前を失って、入院患者の一人になったんだと実感する。色彩に乏しい夕食が運ばれてきた。夕食の後は、何もする事がない。命の危機に直面した直後だというのに、全ては、透明のラップに包まれた出来事の様に感じる。その中で、拓也への想いだけが、絶える事のない炎のように燃え続ける。

 

「拓也への想いだけが、私の人生の真実なのかもしれない」

 

 消灯時間が過ぎ、真知子がまどろみ始めてすぐ、4人部屋の病室の隣のお婆さんが、ナースコールを押した。ぼそぼそとした話し声が聞こえ静かになったと思うと、お婆さんは、また、ナースコールを押す。30分おき位に繰り返されるうち、看護師さんの反応は、鈍くなって行った。真知子は眠れぬまま、いや応なく、やり取りを聞かされる。人として、あまり重きを置かれなくなってしまったような老人であっても、当然、その一人一人に、子供時代や若き日々があり、様々な人生模様がある。お婆さんは、自慢話や思い出話がひとしきり終わると、切ない声で訴える。「体の痛み」「思う様に動けないつらさ」「一人息子がなかなか見舞いに来てくれない事」夜中2時頃、緊急入院があった。夜勤の看護師さんは、手一杯で、お婆さんのナースコールに答えきれない。お婆さんは、哀れな声で、叫び続ける。

「誰か、誰か来て」

しばらくして、やって来た看護師さんに、すがる様に訴える。

「ねぇ、そばにいて。怖いのよ。死ぬのが怖いの」

 

真知子は思う。

「あんな老人になっても『死』が怖いんだな」人というのは、いつ死が訪れてもおかしくないような年になっても、なかなか「死」と向き合おうとはしない。「死」は忌み嫌うべきものであり、理解できないものであり、いつでも、他人事なのだ。たとえ90才の老人であっても、100才まで生きるつもりなら、残された日々は、あと10年もある。先の事を考えても仕方ない。他人は死んでも、自分だけには「死」は訪れない。そんな風に考えてきたのかもしれない。

 真知子は、隣のベッドに横たわるお婆さんに対して、優しい気持ちになれない。

「あなたの娘のような年齢なのに、私には、未来がない。鮮明な感覚のまま、日々『死』と向き合わなくてはならない。あなたの息子はとうに大人だけど、私の息子は、まだ、20才だ。神様は不公平だ」

いたたまれず、真知子はベッドから起き上がり、廊下へ出た。薄暗い廊下にぼんやりと、自分の影が映る。真知子は、もう、お婆さんの事など、どうでもよかった。

 

「今回、抗癌剤で、アナフィラキシーショックを起こしたという事は、もう、抗がん剤治療は受けられないって事?闘うすべがないって事?つまり、もう、死を待つだけって事?」「死」というものが、これまでに感じた事のない現実感を伴なって迫ってきた。全身がぞわぞわと、粟立ってきた。踏みしめているはずの床が波打ち、体が沈み込んで行くような感じがした。