真知子の手術の日程が決まった。確認できた腫瘍は、一個のみで、1センチにみたないので、温存手術の適応となった。温存手術とは、乳房を残し、腫瘍だけを、くり抜くように取り去る。摘出した腫瘍は、生検に回され、癌の性質を調べる。「悪性度」「増殖能力」の他に、乳癌の場合は「女性ホルモンの依存性」「her2依存性」等を調べる。それによって、予後を予想し、抗癌剤の決める時の参考にするためだ。またセンチネル検査も、術中に行う。センチネル検査とは、青く光る薬を、術前に注射しておき、初めに到達したと思われる乳房脇のリンパを切り取って、転移の有無を調べる。そのリンパに転移が確認されれば、そのまま、リンパの廓清手術を行う。転移が確認されなければ、手術は、それで終了となる。センチネル検査が+か-で、予後は違ってくる。-の場合は、極早期という事で、完治の可能性が高い。また、術後に腕が挙がらなくなるといった後遺症もなく、術後2~3日で、退院できる。

 

 突然に殴られたような「乳癌」の宣告だったが、真知子は、前を向いて歩き出した。

「治してみせる。拓也のために。手術が無事に終わりますように。何とか、センチネル検査が-でありますように」

そう、心の中で、祈った。

 

手術前の患者は忙しい。CT検査、血液検査、肺活量検査、心臓の検査。次々といろいろな説明を受け、同意書にサインする。これまで、人前にさらされる事などなかった乳房は、たくさんの医療関係者にいじくり回される。気がはりつめていた真知子自身も、乳房は、ただの体の器官の一つのようにしか感じなくなっていた。

しかし、そんな日々の中、心臓のエコー検査のため検査室に入ると、

「清水さんですね。上半身裸になって、ベッドに横になって下さい」

固い検査台の上に横になったが、担当の男性技師は、カタカタと無言のまま用意をしていて、検査はなかなか始まらない。体を覆うものはなにもなく、冷たい空気だけが、下から吹き上げる。真知子は、惨めな思いで、不覚にも、突然、涙がこぼれそうになった。

「これは、いったい何の罰なんだろう?私が、何をしたというんだろう?これまで、懸命に生きてきただけなのに」

 

突然に、初めて、英治と過ごした夜の事を思い出した。取り立てて自慢できるような乳房ではないけれど、その時、英治は、真知子の乳房を「可愛い」と言ったのだ。よく考えてみれば、乳癌になる前まで、乳房を見せた事がある男性は、英治一人だった。物のように扱われる乳房、真知子自身もそう思い込もうとしている乳房。でも、違う。女性にとって、乳房は、やはり、特別な場所なのだ。

 

 手術前夜、真知子はていねいに体を洗う。包み込むように、乳房を、優しく洗う。温存手術とは言え、メスの入っていない乳房を見るのは、これが最後だ。真知子は、乳房の前で、赤ん坊を抱くしぐさをした。生まれたばかりの拓也の重みと感触がよみがえってくる。真っ赤になって、体中で乳を吸う拓也の横顔がよみがえる。あろうはずのない乳の香が、漂う。甘い中に、草いきれのような青い生命力を含む乳の香。トックン、トックン、赤ん坊の乳を飲むリズムは、母の鼓動と重なる。命のエネルギーは、母から子へ…まさに、乳房を通して、注ぎ込まれる。真知子は、ささやいた。

「ご苦労様、私のおっぱい」

 

 

 「使用中」の赤いランプのついた手術室の前の長椅子に、拓也は、じっと座り続ける。手術には、親族が立ち合い、切除した幹部を確認する。そのような大役は、まだ高校生の拓也には、荷が重い。真知子の乳癌がわかってからの、この一ケ月、拓也は、一人、様々な思いにふけった。けして、素振りをみせる事はなかったが、それは、大変な衝撃だった。机に座って勉強しているふりをしても、ノートは空白のままだ。上手く眠る事もできない。

「母さんがいなくなる」

そんな事は、今まで、想像した事もなかった。母さんは、空気のような存在だ。どんなつらい時も、そばにいてくれる。嬉しい時は、自分以上に喜んでくれる。鍵っ子だった拓也は、一人ぼっちで、たまらなく寂しい時、真知子のベッドにすべり込み、真知子の枕に顔をうずめた。ほのかな花のような香りに包まれると安心した。

だが、思春期に入ると、今度は、真知子を鬱陶しいと思う日々が続いた。

「いちいちうるさい。心配される事が鬱陶しい」

 高校生になり、これまで、母としてしか見る事のなかった真知子を、一人の女性として見るようになった。そんな矢先の出来事だった。

「おれが、女だったら、こんな時、もっと、話し相手になったり、家事も上手くこなせたのに」

女性として、デリケートな部分にメスをいれる母の気持ちや、母がどんな気遣いを嬉しく思うのか、拓也には、皆目わからなかった。

 

3時間ほどで、手術は、無事に終わった。ボーっとかすんだ真知子の視界に、拓也の顔がうつる。

「センチネル検査、OKだったよ。リンパへの転移はなかった。治るよ。絶対」

耳元で、拓也が告げる。「よかった」と言おうとしたが、酸素マスクをしている上に、術中の挿管を抜いた直後なので、声が出なかった。真知子は、大きくうなづいてみせた。真知子の腕は、こんなに華奢だっただろうか?拓也は、真知子が、一回りも、二回りも小さく見えた。

 

「チクショー、何で、涙がこぼれそうになるんだ?」

拓也は、必死でこらえた。

「母さんに、おれしかいない。これからは、おれが、母さんを守るんだ」