早めに帰宅した真知子は、拓也の中学の三者面談に出席するため、着替えを始めた。ボックスプリーツのグレイのスカート、紺色のセーターに、白いシャツ、面談の定番スタイルだ。貧乏暇なしの真知子は、太る暇がない。サイズは、20代の頃と変わらない。それらの服は、結婚前から持っている、質のよい物だった。背は高くなかったが、すらりとした足、こぢんまりとしたバストにくびれたウェストは、母親譲りだ。節約のため、パーマはかけず、セミロングを自然に流したヘアスタイルで、ずっと、通していた。陶器のような色白の肌、知的な眉、切れ長な瞳。美しさや女性らしさを、ことさらに、主張しようとしなくても、真知子は、十分に美しかった。少なくとも、拓也にとっては。

 

カタカタとおさまりが悪い机の上に、担任の佐藤先生が、今期の成績表と、高校の資料を並べる。先生と向き合って座る真知子と拓也は、隣同士で、互いの緊張した息づかいを感じる。

「どう、拓也君、最近の学校は?」

佐藤先生から、突然、漠然とした質問を投げかけられて、拓也は、黙り込んでしまった。

そんな拓也にイライラした調子で、佐藤先生は、続ける。

「何か、困った事があったら、いつでも、先生に相談して」

拓也は、下を向いたまま、小さな声でつぶやく。

「はい」

もう、受験を控えた中三だというのに、学校は荒れていた。盗難、学級崩壊、喧嘩。流血騒ぎで救急車を呼ぶ騒ぎになろうが、悪戯で、廊下が消化器で泡だらけになろうが、先生達は、事なかれ主義だ。

「そんな先生達に、それぞれが、柔らかい心で、大人達の本音を探っている思春期の子供達が、傷つきやすい自分の心をさらけだせるものだろうか?」

と、真知子は思う。

「さて」

と、佐藤先生は、本題に入る。所詮、夏休み前のこの三者面談は、来春に控えた高校受験のためのものだ。

「清水君ね。少しずつ成績は、上がってきているけど、受験校を決めるにあたっては、家庭の事情というものもおありでしょう。私立への進学が、経済的に無理という事であれば、希望する高校は、確実に合格が狙える所がいいと思います。拓也君の内申点にあった高校のリストを作っておきましたから、夏休み中に、見学を済ませておいて下さい」

佐藤先生が差し出したリストを、真知子と拓也は、のぞき込んだ。そこには、偏差値下位の公立高校の名前が並んでいた。山下先生から勧められた泉高の話など、とても、言い出せるような雰囲気ではなく、教室を後にした。

 

 帰路、思春期の母と息子は、互いに、絶妙な距離を保ちながら歩く。無言のまま、帰宅し、着替え終わった真知子は、バッグの中から、先ほど渡されたリストに、再び目を通した。それらの高校は、教室を飛び出して、ろくに勉強をしない子供達の最後の受け皿になっているような高校だ。確かに拓也の内申点はよくないし、面接試験の受けもよくないタイプだろう。経済的に、滑り止めの私立をつけられないとしたら、確実に合格できるよう、受験校のレベルを落とす事が必要なのも、わかっている。だけど、拓也は、毎日、真面目に授業を受け、陰湿なイジメにも耐えているのに、なんで、また、彼らと同じ高校を目指さなくちゃいけないんだろう。

「母子家庭だから?」

真知子の中に、突き上げるような怒りが充満した。

「何よ。こんなリスト」

叫びながら、リストを、床にたたきつけた。

 

狭いアパートの中で、自分の机に

向かっていた拓也は、そのまま、勉強を続けていた。

 夕食を終え、寝る前になって、拓也は、のそりと、真知子の前に立った。

「おれ、決めた。泉高を受ける。死ぬ気で頑張る。5教科全て、満点をとれば、合格だろう?」

驚いて見上げた真知子の目に、拓也の真剣な瞳が飛び込んだ。まだまだ子供だと思っていた拓也の面差しは、いつの間にか、男を感じさせる。角ばってきた顎のあたりには、意志の強さが漂っていた。嬉しさと、これから、受験へ向けて、綱渡りのような挑戦をする事への緊張感で、真知子はぞくぞくとした。そんな想いを悟られるのは照れ臭い。真知子は、おどけてみせる。

「イヤ~さすがに、満点とるヤツはいないでしょ」

「じゃ~おれが、最初のレジェンドだ」

 

 泉高受験を目指す事を、山下先生へ告げると、先生は、拓也専用のカリキュラムを立ててくれた。山下先生には、拓也に対して、特別な想いがあった。山下先生自身、母子家庭で育ち、苦労を重ねてきたからだ。

 

 拓也が夏休みに入っても、真知子は、仕事を休めない。拓也が小6になってから、真知子は、ほぼフルタイムに近い働き方の、今の職場へ移った。教育費が重くのしかかってくる事を見据えての選択だった。拓也は、エアコン台を節約するため、真知子の作ってくれたお弁当を持って、近くの図書館へと向かう。もたもたしていると、図書館の席はなくなる。受験生ばかりでなく、現代は、年配者が、ひがな一日、席を確保してしまう。朝の早い年寄りに負けないように、開館前には、並んでいなければならない。

 

塾では、繰り返す模試の成績を、教室内の掲示板に貼り出す。拓也のように、中3の夏休み前あたりに、塾へ、のそのそ入ってくる生徒は、珍しい。早い子は中学入学と同時に、遅くても、中2の秋あたりには、たいがいの公立中学生は、塾に通っている。中3の夏休みを最後に部活動も終わり、受験モード一色となる。秋になり、拓也と勇希は順位争いを繰り返すようになった。

勇希には、意外だった。幼い頃から、無口で、運動神経が鈍い拓也の事など、ライバル視した事もなかったのに。それは、勇希の母にとっても、同じだった。地味な感じの母子家庭の真知子に、これまで、興味を持つ事はなかった。

 けれど、絵に描いたような、全てに恵まれた幸せな家庭なんて、果たして、本当に、あるのだろうか?地域では、有名な医院を営む、勇希の家。もちろん経済的には、申し分ない。けれど、幼い頃から、家庭教師や塾通いで、勉強を強いられ続けてきた勇希は、疲弊していた。中学受験で失敗し、今度、また高校受験で、失敗するなんて事は許されない。一人息子の勇希は、将来、医院を継がなければならない。

その重圧は、勇希の母にとっても、同じ事だ。姑からは、突き上げられる。夫は、頼りにならない。それ所か、浮気の影が見え隠れして、勇希の母は「幸せな家庭」というラベルの貼られた箱の中で、孤独なまま、喘いでいた。