公立高校受験の制度は、地域によって、細かく違う。拓也の場合、定められた学区の中で、受験校を選ぶ。もちろん好き勝手にどこを受けてもいいというものではなく、内申点という、これまでの中学校生活での成績をもとに、担任と話しあって決める。今日は、受験を来春に控えた、夏休み前の三者面談の日だ。

 

真知子は、派遣で働いている。同じ様な事務関係の職場が多い。今の職場は、もう3年になり、比較的給料もいいが、いつでも生活はギリギリだ。この先、拓也を、私立の高校に通わせるようなゆとりはない。真知子は、この6月から、拓也を近所の学習塾へ通わせていた。母親が塾へ行けと言えば、嫌がるのが、ごく普通の子供の反応だろうが、拓也は違った。

「エッ、いいの?塾代、大丈夫?無理しなくてもいいよ。僕、自分で勉強するから」

拓也のそんな言葉を聞く時、真知子は、母子家庭のつらさをかみしめる。子供らしいわがままを言ったり、反抗期のイライラをぶつけてこない拓也が、心配だった。

 人と打ち解ける事が少ない拓也だったが、まだ若く、お兄さんのような塾の山下先生とは、気が合うようだった。もともと理数科目が好きだった拓也は、数学の面白さにはまって行った。

 

 同じ塾に、勇希も通っていた。勇希は、中学受験に臨んだが失敗。拓也と同じ公立中学へ通っていた。勇希の母は、勇希を学区のトップ校である泉高校へ進ませ、そこから、東大、あるいは、国立医学部を目指すんだと豪語していた。泉高校から、医学部や東大へ進んでも、少しもおかしくはないが、問題は泉高校へ入れるかだ。

 実際、勇希の成績は悪くなかった。何しろ、勇希は、この塾のほかに、家庭教師までついているのだ。塾の責任者でもある山下先生にとって、毎年、一人でも、泉高合格者を出す事は、責務だ。泉高合格者をだせば、塾の評価がぐんと上がる。今年度の熟生の中で、泉高を狙えるのは、勇希一人だったが、

「こいつ、いけるんじゃないか?」

中三の6月に、遅れて入ってきた拓也の急速な伸びに、山下先生の食指が動いた。

 

「清水、ちょっといい?」

塾の授業の終わりに、山下先生は、拓也を呼び止めた。誰も居なくなった教室で、さしで座ると、山下先生は、切り出した。

「そろそろ。受験校の希望を出す時期だけど、清水は、どこを狙ってるの?」

「僕、確実に入れる公立高校なら、どこでもいいんだ。うち、母子家庭だから、私立はとても行けない。公立じゃないと。大学なんて、また、お金がかかっちゃうから、高校出たら働くつもり」

「勉強の方はどう?」

「う~ん、山下先生の数学の授業は面白い。でも、学校は、今、結構、荒れてるんだ。授業中、勝手に教室出ていっちゃったり、騒いだりする子がいて。先生達、あんまりヤル気ないみたいだし。先生は、真面目にやらない子達のご機嫌ばっか取ってる。問題を起こされたくないんだろう。僕は、担任の先生でも、ホンネを話せないから、受けが悪んだ。授業中に発言しないから、テストで満点とっても、ちっとも、内申点あがらないし」

「清水が勉強嫌いじゃないんだったら、大学だって、考えたっていいんじゃないか?お金の事、気にしているんだったら、国立大なら、入学金も学費も安いし、奨学金だってある。長い目で見れば、大学を出た方が、就職の選択肢も広がるし、お母さんも、その方が喜ぶんじゃないか?」

「でも、先生、国立大なんて、なかなか入れないよ」

「確かに狭き門だ。でも、なるべくレベルの高い高校に進学すれば、夢じゃないよ。例えば、泉高とか」

「先生、何言ってんの?僕の今の内申点じゃ、入試当日に5教科全部、満点とっても、泉高に合格なんてできないよ」

「さすが、清水。数学が得意だけあって、入試制度をよく研究してるね。だけど、手があるんだよ。昨年から、泉高では、新しい取り組みを始めて、内申点ぬきで、当日の入試結果のみで、合格者を決めるんだ。合格者全体の一割に過ぎないんだけどね」

「へ~そんな制度があるんだ。でも、やっぱり、狭き門だね。取る人数少ないし、満点近く取らないとでしょう?僕は、そんなに頭よくないし、冒険できない。一校しか受けられない公立で滑ったら、併願した滑り止めの私立へみんな行くけど、僕は、経済的に無理だもん。だから、確実に合格できる公立高を受けないと」

「それがね、清水、まだ、手があるんだよ。清水の併願校にどうかなって思っている私立の北高なんだけど、合格者のうち2割の成績上位者は、授業料が免除になるんだ」

「エッ、そんな制度があるんですか?」

「もちろん、今の清水の成績じゃ無理かもしれないけど、もう少し頑張れば、夢じゃないと思うよ」

 

これまで、生活の事で、真知子が拓也に愚痴をこぼす事はなかったけれど、拓也には、その苦しさがわかっていた。拓也は、一度見た数字を正確に記憶する特技があった。たまたま目にした真知子の給与明細、アパートの更新料、ポストにいれられた光熱費の金額、スーパーのレシート、それらを計算して行けば、推察がつく。拓也の前では、明るく振舞っている真知子だが、一人、長椅子に座りながら、背中を丸めている姿に、拓也の胸は痛む。

 

「父さんがいたら」

幼い拓也は、幾度もそんな思いにとらわれた。けれど、中学生になった、ある日、ひょんな事から、英治は、自殺したのだと知ってから、拓也は決めた。

「おれが、母さんを楽にしてやる。公立高校を出たら、すぐに働こう」

 

でも、拓也には夢もあった。大学へ行って、数学や化学や物理の勉強をしてみたい。漠然とそこには、とてつもない夢が広がっているような気がした。けれど、それは、叶わぬ夢だとわかっていた。第一、大学への進学費用など払えるわけがない。真知子がどう思っているのかは知らないが、真知子の負担が増えるような希望を、拓也の方から、話す事はなかった。受験する高校も、必ず公立へ入れるように、レベルを下げて受験するつもりでいた。けれど、山下先生は、いろんな選択肢がある事を教えてくれた。拓也は、母子家庭というくさびを外して、未来を考える権利を与えられたような気がした。山下先生との面談を終えて、アパートへと帰る道は、いつもと変わらない道なのに、拓也には違ってみえた。夜空に浮かぶたくさんの星が、高く、高く、輝いていた。

 

「ただいま」

拓也の声に、いつもの、「おかえり」がなかった。真知子は電話中だった。着替えながら、拓也は、電話の相手は、山下先生だろうと思った。

「実はね」

互いに、同時に同じ言葉で、きりだして、苦笑した。受験の事、その先の将来の事、互いに初めて、本当の気持ちを話した。その中で、拓也は初めて知った。真知子が、拓也の大学進学を望んでいる事。そのための学資保険に加入している事。私立北高の話は、真知子も今日、初めて山下先生に教えられた。

「拓也、できる所まで、挑戦してみたら。応援しているよ」

「そうだね」