拓也は、少し変わった子だった。真知子の前では、よくしゃべるが、一歩、外へ出ると、ほとんど何もしゃべらない。運動神経が鈍く、それが、コンプレックスとなっている事は、容易に察しがついた。経済的にゆとりのない母子家庭ゆえ、友達どうしのつき合いに必要なゲーム等を買ってやる事もできない。父親を、あんな形で亡くし、兄弟もおらず、孤独なかぎっ子の拓也。興味を持った事は、とことん極めて行く。図書館で借りた図鑑や化学の本に夢中になった。折り紙、あやとり、電車、恐竜、元素記号、拓也の興味は、どんどんひろがって行く。拓也は、目を輝かせながら、幼い子供とは思えない専門的な知識を、真知子に披露する。そんな拓也が、母として、誇らしく、

「拓也は、スポーツが苦手でも、いろんな事の博士なんだから、拓也の知っている事を、友達に教えてあげればいいのに」

「ダメだよ。そんな事話したら、頭おかしいヤツ、自慢するヤツって、いじめられちゃうもん」

「拓也、誰かにいじめられてるの?」

「ううん、母さん、心配しないで」

「拓也、母さんは、仕事をしないと、拓也と二人、食べて行かれないから、拓也が学校から帰ってきた時、家にいないでしょう。一人で留守番は寂しいよね。だから、母さんと一緒の時は、何でも、話していいんだよ。イヤな事ってサ、誰かに話すと、気が楽になるもんだよ」

「勇希君、誰もいない所で、僕の事、バカとかグズとか言ってくる。気にしてないけど、ちょっとヤダ」

「そうなの、やなヤツだね勇希のやろう」

普段は見せない真知子のおどけた口ぶりに、拓也は、ケラケラと笑った。拓也を抱き寄せると、真知子はささやいた。

「拓也、どこにでも、イヤなヤツはいるけど、自分がイヤなヤツにならなければいいんだよ。そうすれば、きっと、最後はうまく行くから」

 

 毎週末は、買い出しや掃除等の家事が忙しかったが、拓也とともに、スーパーへ行き、メニューの相談をしたり、拓也にもできそうな掃除を頼んだり、そんな事の一つ一つが、真知子の喜びだった。日曜日には、拓也が興味がありそうな場所へと出かけた。図書館、博物館、展覧会、調べれば、工夫次第で、あまりお金をかけずに楽しめる場所がたくさんあった。真知子にだって、抱えるストレスは山のようにあったけれど、拓也の輝く瞳や自然に溢れる笑顔を見る瞬間に、全て消え去る。自分自身のために使える時間もお金も何もなかったけれど、真知子は満足だった。自分の事、先の事は、全て拓也が成人してから考えればいいと思った。

 

 けれど、小学校で年二回の担任の先生との面談では、いつも変わらず、拓也の受けはよくなかった。

「拓也君、心を開いて話をしてくれないんですよね。だから、何を考えているんだかよくわからなくて。お友達もあまりおらず、ポツンとしている事が多いし…まぁ、母子家庭で、いろいろおありでしょうから…特に問題を起こすような事は、今の所ないんですけど、将来が心配です」

いつも、にこやかに、先生にお礼を言って、教室をあとにするものの、真知子の心は、納得が行かない。拓也に嫌がらせをしている勇希は、先生達の受けがいい。スポーツが得意で、明るく友達のリーダー格だ。その上、父親は医者で、母親は、PTAの役員と文句のつけようがない。将来は東大か医学部へ進むんだと、中学受験をめざして、もう、塾へ通っている。

「誰も彼も、母子家庭という色眼鏡で見る。たった二人きりの家庭だけど、普通の家庭にだって負けない健全な家庭だ。拓也はいい子だ。上手くみんなとやれてないのは確かだけど、問題行動を起こすようなバカじゃない。自分を知っている賢い子だ」

 

 カンカンカン、勢いよく、真知子はアパートの簡素な階段をのぼる。わずか6戸の小さなアパートの2階、一番奥が、我が家だ。一人で留守番の多い拓也の安全のため、玄関まわりには、子供を推察されるような物は置いていない。だが、殺風景な玄関扉を開ければ、あたたかい空間が広がる。真知子は、合理的な性格だった。家の中によけいな物は置かない。狭いアパートの空間を上手く使うには、工夫が必要だ。6畳間に、二段ベッドを置き、押し入れの中に組み入れた引き出し付きの衣装ケースの中の衣類は、季節ごとにきちんと収納されている。拓也が一人で出し入れできるように、中味を書いたラベルが貼ってある。動線を考えて、風呂場脇の小さなタンスに下着や靴下タオル等は、収納されている。二間しかない、隣の四畳半が拓也の部屋。学習机の隣の本棚に、拓也の使う物が、手際よく収められるように、工夫されている。

小さなキッチン兼ダイニングの隅に、壁が背もたれになるようにL字型に並べた長椅子が、真知子と拓也のくつろぎの場所だ。壁には、雑誌の切り抜きを入れた額が、センスよく飾られ、長椅子には、クッションが、いつでも座る人を、あたたかく迎え入れるかのように並ぶ。長椅子の前に置かれた低いテーブルで、二人鍋を囲んだり、お茶を飲んだり。かぎっ子の拓也が寂しくないように、真知子は、どんなに忙しい時でも、出勤前に、このテーブルの上にその日のおやつとメモを置いておく。

父を失った幼い拓也とずっと、ここで、過ごしてきた。たわいもないおしゃべりをして笑い合う日々もあれば、真知子の説教の隣でうなだれる拓也も、ここに座っていた。かぎっ子の寂しさで、膝を抱える拓也も、真夜中に、一人、涙を流す真知子もいた。そう、たとえ母子二人きりでも、ここは、誇れる我が家だ。立派な構えの勇希の家にだって負けやしない。

 

「ただいま」

玄関を開けた真知子の鼻腔を、おいしそうな香りがくすぐる。

「母さん、おかえり。ぼくね、夕飯作っておいたよ」

テーブルの上に、きちんと二枚のお皿が並べられていた。ソーセージとスクランブルエッグ、ゆでたブロッコリー。

「この間の調理実習で作ったんだよ。これなら、僕にもできそうだと思って」

一人で留守番中に、ガスコンロは使わない約束になっていたはずだった。けれど、真知子は注意しなかった。真知子を喜ばせようと、目を輝かせている拓也の想いを台無しにしたくなかったのと、いつの間にか、拓也は、こんな事ができるほどに成長していたんだとハッとした。

二人で囲む夕食は、質素でも、美味しかった。幸せなひとときというものは、流れ続いて行くものではなく、点のようなものなのかもしれない。輝くように、あるいはもの悲しく、永遠に心に刻まれて行く。けれど、それは、朝露のように、かすかで、はかなく、見逃してしまいそうにもなる。

 

 特に、母親は、子供の成長が嬉しいのと同時に一抹の寂しさを覚える。子育ての最終目的が「子が親を必要としなくなる事」なのだとしたら、子の成長は、おのれを必要としなくなる事への、一歩だからだ。

 

いちいち手がかかり、心配の絶えない幼少期ほど、母子の関係は密接だ。運命共同体でもある。そんな蜜月時代が、真知子と拓也にも、かげりが見えてきた。

中学生になった拓也に、第二次性徴が現れ始めた。父子家庭の女の子が、初潮の事を話しにくいように、男の子は、母親に、性的な体の変化の事を話しづらい。拓也の顔や手足の産毛は、日に日に濃くなり、声の高低が定まらない時がある。ふっくらとした頬の膨らみがおさえられ、代わりに顎のラインが角ばってくる。風呂場の出入り口の脇に、ついたてが置いてあり、真知子は、それを広げてから入浴していたが、素っ裸で、風呂へ出入りしていた拓也が、いつの間にか、ついたての陰で、こそこそ着替えるようになった。

 

 思春期というのは、男の子も女の子も、どこか痛々しい。大人と子供、傲慢とコンプレックス、陰と陽の間を、やじろべいのように、いつも、極端に揺れている。マグマのような、若いエネルギーを持て余しながら、ぎこちない自分の言動が周囲から、どう見られているのかが、滑稽なほど、気にかかる。

 

話す事もスポーツも得意じゃない拓也が、中学校生活を楽しめていないだろう事は、容易の察しがついたが、小学生時代とは違って、真知子に、学校での出来事を話す事はなくなって行った。