今月末、近くの大学で、野澤和弘さんの講演会が行われる。体調しだいだけど、ぜひ、行きたい。

野澤和弘さんは、毎日新聞論説委員で、障害者差別解消法の立役者でもある。息子さんは、自閉症だ。

野澤さんの新刊が、ぶどう社から出たので、興味を持って、読んだ。

本のタイトルは…
「障害者のリアル×東大生のリアル」

ゼミを通して、リアルな障害者と接した東大生達の感想文のような内容だ。東大生らしく、些細な内容を難しい言葉で表現する、小林秀雄ふうの文章が鼻につくが(失礼)踏み込んだ、素直な感想文が多かった。


以下は、稚拙な私の感想文です。

私は、多くの東大出身者に囲まれて育った。父、叔父達、祖父。彼らの感覚が、あまり一般的ではないと理解したのは、長じてからだ。特に身近であった父の感覚の中には、常に一般的でありたいと願いながらも、そうなれない葛藤やコンプレックスのようなものを感じた。同じような感覚を、現代の東大生達の中にもある事を感じた。
私の息子は、自閉症だ。父と息子の特異性は、解離しているようで、類似性を感じさせる。時計の秒針の0と59が、隣り合わせでありながら、別の範疇へと分類されるようなものだ。
天才的な頭脳を持つ人以外は、東大生となるために、日常の些事、哲学的な疑問、快楽的な誘惑、全てを排除して、受験勉強に邁進してきたはずだ。合格の喜びと共に、東大生というレッテルを貼られる。対外的に素晴らしいレッテルの下の現実は、どうだろう?ひとくくりに、駒場キャンパスに集められても、暗黙に存在する「理Ⅰ」と「理Ⅲ」の違い。すぐに襲ってくる「進振り」。薔薇色のキャンパスライフばかりではないだろう。
一方、対外的にネガティブな障害者のレッテルを貼られた人達はどうだろう?障害をひとくくりにはできないが、あながち、希望や幸せから切り離されてはいない。
今回、このゼミに参加した東大生達は、見所がある。障害というネガティブなリアルの中にある真実を探ろうとしているからだ。
けれど、気付いて欲しい。リアルなコンプレックス等、強烈な自我、優越感の裏返しなのだと。
今回のこのゼミが、東大生のリアルを、一時的に引き出したとしても、所詮、東大生は、バカじゃない。社会の中で、東大生としてのレッテルを上手く使って、器用に生きて行くんだろう。
けれど、忘れないで欲しい。「頭脳」「芸術」どのような分野に置いても、卓越した能力を持つ者は、社会の奉仕者なのだと。
そして、また、どのような分類のレッテルの下にも、それぞれに名前のついた、一人一人の人間がいる事を、忘れずにいて欲しい。


僭越な感想文となりましたが、東大生の方々の底力に、期待しております。







南裕子