私の通うカトリック教会では、3.11の昨日、

「キリスト教」「神道」「仏教」の合同追悼祈願が行われた。


ブログに宗教的な事は書くまいと思ってきたが…

「宗教の持つ意味とは?」

自分なりの考えを書きたい。


「宗教」の重大な役割は二つあると思う。

一つは…

「死を前にした人、また、愛する人を亡くした人の苦しみを癒す事」

もう一つは…

「人が悪事を働く抑止力」

(宗教の名のもとに殺し合う事等、どの宗教も説いていないので、これは除く)


私は、ミッションスクールで過ごしたため「キリスト教」をすり込まれたが…

人として正しく生きて死ぬ事は、どの宗教も目指す所は同じだと思う。

富士登山の登り口がいろいろあるようなものだ。

無宗教でも、正しく生きている人はたくさんいる。


けれど…

「死」と向き合いながら、生きて行く今ほど、

「宗教」の必要性を感じる事はない。


十代だった頃、まだ、若く健康だったのに…

「死んだら、どうなるのだろう?」

そんな恐怖にとりつかれた時期がある。


「生」の先には、必ず「死」が待っている。

その事を、うやむやにしたまま、なぜ、みんな生きて行けるのか不思議でならなかった。


そんな時…

一つの救いになったのは、

「臨死体験」をした人達のレポートだった。

「人種」「性別」「宗教」がそれぞれ違うのに、皆、似たような体験を語っていた。


死後、

現在と同じような世界が存在する事はあり得ない。

けれど…

目にみえないもの、自分が今理解できない世界を否定する事はない。


私は…

「生」と「死」は、一本の道のように繋がっている様な気がする。


どのように、その道を生きて行けばいいのか…?


「キリスト教」の原点は「愛」だけど…

「愛」は「教会」や「教義」「上っ面な祈り」の中になんかない。


「謙虚」で「感謝」を知る人

苦しみを知っている人

貧しい人

心から、神を必要としている人


そんな人達の「祈りの実践」の中にこそ存在するんだと思う。


尊敬するマザーテレサは、言っていた。

「愛されるより愛する事を…」

「理解されるより理解する事を…」

「痛みを感じるほどに、与え続けなさい」


私はマザーには、なれない。

でも、マザーは、

「一人一人が、周りの人を大切に思う事以上の愛はない」と…


私は「死」を迎える事は怖くない。

神に愛されている自信があるから…

それは…

けして、私が善人だからなんかじゃない。

それは…

私が、一匹の迷える子羊だから…





裕子ヒツジ