今週、誕生日を迎える。57才になる。
私位の年齢になると…みんな…
「また、一つ、年をとっちゃったワ!誕生日なんて嬉しくないわ~」
ケド、私は、素直に…とっても、嬉しい!
「また、一つ、年を重ねる事ができた。この一年を乗り切る事ができた」
そして…この年になって、やっと、気づいた。
「誕生日というのは、この私を、苦しみの中で産んでくれた母へ、感謝する日なんだ」
今、このブログに、事実を書いたら…
「非難ごうごう…次から、読む人いないかも」って位、私は親不孝者でした。
30年以上前に駆け落ち婚をしてから…
母とは、ずっと、ギクシャクしたままでした。
昭和一桁うまれの母の中には「娘の結婚」というものに対して「譲れない方程式」がありました。
いわゆる「3高」ってヤツですか…?
実家は異様にT大卒が多い…T大がだめだと、OKに行く…
なので、私は子供の頃、かのOKを「頭の悪い人が行く大学」だと誤解していた位です。
従妹達が集まると…私はいつも味噌っかす。並べられたマトリョーシカの端のチビ…
通っていた学校は、地元では「お嬢さん学校」…でも…G院やOKの従妹達とは、生活ぶりが違っていました。
祖父母の家は、今、通っている教会の近くにありましたが…
思い出すと…うたかたの夢のよう…
広大な敷地に建てられた、古めかしくも威厳のある屋敷…
でも、いつも、逃げ場は、住み込みのお手伝いさんの部屋でしたが…
母の思惑通りに育っていたはずの「裕子」が…
突然、結婚相手として連れてきたのは…あろう事か、高卒のフリーター…
母としては「許す」という選択肢はなく「開いた口がふさがらない」だったんだと思います。
それでも、長女の誕生を機に、よりが戻りましたが…
バブル崩壊で夫は借金問題を抱え…また関係はこじれて行きました。
その後、私は「自閉症の長男をどう育てるか…?」
その事で、常に頭が一杯!
親を考えるゆとりがない所か…
世間も、親も、育ってきたバックグラウンドも、全てを敵に回した気持ちで、突っ張っていました。
そうしていないと、潰れてしまいそうでした。それ位、私にとって「障害児を育てる」という事は覚悟のいる事だったんです。
夫は「母の基準」から言えば…「下層」だったかもしれないけど…これ以上ない位「よい父親」でした。
夫がいなければ、一人で息子を育てる事などできなかった。
だから…「親」より「夫」を選んだ。
11年前、脳梗塞で、突然、母は逝きました。74才でした。
父は、その3年前に、糖尿病からくる全身の衰弱で、77才で亡くなっていたので…倒れた時、さぞ、心細かったと思います。
母は遺書をのこしていました。
内容は…こんな裕子を許し、応援してくれていました。
10年以上が過ぎても…
「なぜ、もっと、年老いた母に優しくできなかったのか…?」
と後悔はつきません。
最後に受け取った手紙には
「元気にしていますか?」
と、一言、達筆な字で書かれています。
「ママ、心から…私を産んでくれて、ありがとう」
裕子