戦後70年、戦争の体験を語る人達は、残り少なくなってきた。

戦後生まれの私達にとって、戦争は、古めかしいモノクロ映像だ。


亡き父、義父は一才違いの、ともに大正生まれ、まさに戦地へと赴いた世代だ。

しかし、ともに、多くを語る事はなかった。


当時の風潮は、現代の私達には想像もつかないが…軍人はある種、若者の憧れでもあったようだ。

義父は、自ら志願して、戦地へ赴いた。南方で闘い、奇跡的に帰還した。戦後は警察官としての生涯を全うした。

酒が入れば…軍歌をうたい。毎年、「戦友会」へ出かけ…義父にとっての戦争は心の中でずっと続いていたような気がする。


父の戦中は、義父と対照的だ。父は、戦地へ行かなかった。当時、父の通っていた大学の、一部の学部の生徒達は、兵役を免除されていた。好戦が伝えられる中、政府内部では、すでに敗戦を見越し、学生達を、戦後の復興を牽引する担い手として、確保しておきたかったのだ。

戦後、父は造船工学、同じ大学に通っていた弟は応用微生物学の分野で、戦後の日本を支えて行った。

父は独学で、数か国語を話した。一年のうち数か月は、国内にいなかった。アメリカ人、ドイツ人、様々な国籍の人が、家へ出入りする事も多かった。直接戦地へ赴かなかった父と義父との感覚の違いは大きかった。


語る事のない父達とは違って…母は、戦時中の話を多少話した。

終戦を迎えた時、母は16才。疎開の年齢ではなく、学徒動員で、工場の手伝いなどをさせられていたと聞く。母の自宅のあった地域は、歴史的建造物が多いという事で、空爆の対象から外されていたらしい。

一方、大田区にあった父の自宅は東京大空襲で焼けたと聞く。


私は、家の中に余分な物がある事が、我慢できないタイプだ。物を捨てては、よく母と対立した。

母は

「物がない、食べる物がないっていうつらさが、あなたにはわからないのよ」

よくそれで、ケンカになった。その母も、もういない。


私は時々、末期癌という、自分の闘病の世界に入り込んでしまう。

けれど…この終戦の日に想像してみる。

健康バリバリの若者達が、戦地で、殺したり殺されたり…原爆、空襲で、カワイイ盛りの子供達まで犠牲になり…怪我も病気もろくな手当は受けられず、栄養をとる事もままならない。

比べて…この私は至れり尽くせりだ。本来なら、とっくに死んでいてもおかしくないのに…健康保険制度のおかげで、わずかな自己負担で…美しく清潔な病院で、最先端の治療を受けている。

「癌」も「難病」も「障害児を持つ事」もつらい。…でも…今、日本人であるという事はあらゆる点で恵まれている。


戦争へと赴き…しかし戦後の日本をここまで引き上げ、支えてきた父達…草場のかげで、何を思っているのかナ?


…どうか、平和でありますように…この先ずっと…見守っていて下さい。


裕子流れ星