いつも思うのだが、わたしの調べ方が偏ってるのかもしれないが、

登校拒否についての記事を読むと、

学歴や勉強に、つながる。

しかも、有名な人や歴史的な人

結局は、大学や社会的ステイタスのある仕事をしてる人の結果に落ち着く話を例に持ちだしてる事が多くて。

勉強分野以外での話をあんまり見たことがない。

そういう例は、

特殊な話であって、一般市民には首を傾げてしまう。

しかも、そういう人の性別は男性である。

家庭内でどんな活躍をしてるのかは個々の事情については、詳細はわからない。


わたしは、かなり以前インターネット調べてたのは、

中卒出身者の今後であった。

フリースクールやオルタナティブ出身の多くの方々の、中卒の社会に出て行き方や、社会での役割、

自営業の仕方である。

大卒に繫がる人の記事は少ないが見たことはある。

社会の風潮で、進学に帰っていくのか、、比較的に中学、高校の時から登校拒否の人がそっちに行くのかは、数値的には調べてないので、わからない。

(昔の人達は、学歴がつけられない場合、

自営業になったのだろうこともあるのだろうが(自分の祖父がそうであった))

インターネッㇳが普及していて、も、

ほとんど出てこないのは、

わたしの調べ方が、甘いのかもしれないが、、、

寂しいことである。

中卒でバリバリに働いてる人(芸能人をよける)は、インターネットやそんなところに、登場しないのかもしれない、と思う。

昔の時代は、大学卒があまりいなくて、

家庭の事情で

中卒や小学卒が多い時代だから、

学歴コンプレックスは、あるかもしれないが、

堂々と世の中で仕事をしていけるのかと思ったりもする。

いまの時代は、

ほとんど誰もが高卒や大卒になっているから

本人の事情で、登校拒否をしてるということで、

昔と違うコンプレックスが、でてきてるのかもしれない。


いい時代になったのか、

それとも、生きづらい時代になったのか、

よくわからない。


学歴なくても大丈夫ですよ、言ってる人は、

学歴があったりする。しかも、偏差値とかステイタスのある大卒の人が多い。

わたしは、そんな簡単に言い切れないな、と思う。

登校拒否する時点で、

社会に対しての疎外感や葛藤があるし、

自己否定感が強い。社会に出ていくのに時間が必要であると言われている。

先生や周囲に対しての不信感もある。

自分は登校拒否でした、と言ってる人は、

ステイタスのある仕事や大卒になっている。

反対に学歴が必要と言っている人も、正直でいいとは、思ってしまう。


生まれて初めに行く場所が、

幼稚園や保育園で、

一人の絶対者(保育園は、何人か)に支配されるというところであるから、

人によって異なる見解があるとは、思うが、

なかなか、人生は、厳しいな、と思う。

その構造がずっと続く。

小さな子供に役割意識を教えても

理解できているのか、不明である。

先生という役割は、知識を教えるものであるが、、

さてどうなんだろうか?


アメリカの社会ではホームスクーリングが、ある。

日本でもしてる人はいる。

生活が安定していれば、

そう言うのも可能だろうと思う。


子供の時からの意識はどうなんだろうか?

気がついたら、

わたしをしていて、かわらないものである。

これが瞑想で我が取れるということだが、

日常では、わたしという意識は感じないときが多いのであるが、、

とりあえず、どんな人でも生きていくために、

お金が必要だから、

社会の中でお金を作るというのは、マイノリティは、たいへんであるな、と思ってしまう。


ポテトチップㇲが、食べたくなってきた。


社会の流れから、反すると、あんまり、よくないかもしれないが、

外国から人を呼んで労働力にする前に、

登校拒否問題をどうにかして、

何万人といる、、

子供の時から、

マイノリティを大切にするとか、

人と違ってていいということを怒らないで、許す。

どんな子供にも受容させる、

教え込むのが、いいのではないだろうか、、、

(日本は村社会だし、恥の文化があるので

外れてた人には、厳しいとは思ってしまう。

お互いに牽制し合って暮らしている。都会はだいぶん薄れてきているが。学校では反映されているのだから、根強くあるのかもしれないし、遺伝子にあるのかもしれない)

結局、外国のひとがきても同じような問題がおこる可能性があるかもしれない


そんなこんなで、

わたしの中の

燃焼しきれない葛藤が芽を吹くときが、たまにある。


スッキリしないので、
スッキリするものを並べてみた