いま、コロナ禍で笑顔がなくなりがちな時だからこそ、
笑いについて少し考えてみたいと思います。
落語や漫才など
同じ笑いを耳の聞こえない人たち全員が共有できることばかりではありません。
手話は言語なら手話通訳すればいいのではないかと思われるかもしれませんが
言葉遊びのような内容はいかに天才的な通訳者であっても
パーフェクトにその笑いを伝えることは不可能かと思われます。
たとえば、寅さんの口上で
‘四谷赤坂六本木、チャラチャラ流れるお茶の水、粋な姉ちゃん立小便’
‘結構、けだらけ、ネコハイダラケ、お尻のまわりは糞だらけ、と来らぁ!’なんか
本当の通訳者泣かせ(何回も経験あり・笑)
内容を翻訳する事と、それが笑えるものになるかとは全く別問題です。
これはアメリカンジョークを日本人が笑えないのと似ているかもしれません。
さて、数年前ですが「難聴児に笑いを」というお話を聞いたことがあります。
笑える為に、大事なのは会話の最後にある『オチ』の存在、テンポ、
おもしろいやりとりの流れを視覚化すること
もっとも大切だと印象に残っているのは
共通の背景があるからこそ笑えるということを理解することとのこと。
そういえば、随分前に
とある落語家さんの講演依頼があり
事前準備・勉強の為に自腹で‘浅草演芸ホール’に行きました。
本来は講師の落語家さんだけが目的ですが
せっかく大枚をはたいたのだから他の演目もみることにしました。
しかし、暫くすると、笑いのツボが私だけどうも違うらしいことに気が付きました。
周りのお客さんをみると平均年齢は70歳位か?という状態
なるほど笑いは年齢によっても異なるのだと実感したのでした。