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神戸RANDOM句会

シニアの俳句仲間の吟行・句会、俳句紀行、句集などを記録する。

かたつぶり角振り分けよ須磨明石 芭蕉

芭蕉は、貞享5年(1688年)4月に摂津と播磨の国境、鉄拐山でこの句を詠みました。須磨・明石は、源氏物語や源平の合戦の歌枕。翌年、45歳の芭蕉は奥の細道の旅で岩手・秋田まで足を延ばしますが、西の旅はこの須磨・明石まででした。

芭蕉が鉄拐山から眺めた塩屋・垂水・舞子・明石の海岸線は、その後、昭和の終わりまでほとんど変わっていません。海岸線ぎりぎりに鉄道と狭い国道2号が続き、漁港が点在していました。

志賀直哉(1883-1971)は100年前の車窓風景を「暗夜行路・前編(1921発表)」に描いています。

塩屋、舞子の海岸は美しかった。夕映を映した夕なぎの海に、岸近く小舟で軽く揺られながら、胡坐をかいて、網をつくろっている船頭がある。白い砂浜の松の根から長く綱を延ばして、もう夜泊の支度をしている漁船がある。謙作は楽しい気持で、これらを眺めていた。

塩屋・垂水間の海岸に1983年、平磯公園(地下は新垂水下水処理場)が完成し、世界一のつり橋・明石海峡大橋が1998年に完成して景色が激変します。垂水・明石間の海岸は埋め立てられて「マリンピア神戸」「アジュール舞子」「大蔵海岸」に変貌。松林の中に「六角堂」がひっそり立っていた舞子は、巨大な橋台と淡路島に伸びる大橋ですっかり変わりました。

第27回神戸RANDOM句会は、「初夏の舞子海岸句会」。今年、明石海峡大橋開通20年を迎えた舞子海岸での吟行です。

舞子海岸を歩く――――――――――

集合は、5月10日(木)午前9時30分、JR舞子駅改札口。5月にしてはやや肌寒いですが、雨の心配はなし。本日の参加者は、さくらさん、だっくすさん、つきひさん、どんぐりさん、へるめんさんの女性5名。男性は一風さん、蛸地蔵さん、稲村さん、英さん、播町さん、ひろひろさん、見水さん、ろまん亭さんの8名で総勢13名。

この場所でのRANDOM句会の集合は2度目。4年前の第19回・南淡路句会は橋の上のバス乗り場から高速バスに乗りました。今日は、ここから歩いて舞子海上プロムナードと舞子公園内の建物を巡り、句を作ります。全員がそろい、出発。目の前に巨大な橋台(アンカレイジ)と明石海峡、淡路島が広がります。「橋の科学館」の休憩所で会費の徴収と案内資料の配付を済ませ、絶景を背景に全員集合写真を撮ろうとしましたが、まわりは中国人観光客ばかり。腰かけている日本人老夫婦に、英さんがお願いしてシャッターを押してもらいました。

舞子海上プロムナード-噴水にはらわたの無き明るさよ 閒石-

 

入場券を買って、エレベーターで舞子プロムナードに上がります。

舞子海上プロムナードは大橋の舞子側に添加施設として同時施工され、1998年に開設。海面からの高さ47m、陸地から150m明石海峡へ突出した延長317mの回遊式遊歩道です。淡路島、大阪湾、瀬戸内海が一望でき、中央にラウンジ(休憩所)やレストランもあります。

一昨年の第24回・海峡スケッチ句会は、明石から高速船で海峡を渡り、淡路島側の橋台の下の道の駅「あわじ」で写生会と吟行をしました。「生しらす丼」や「淡路牛バーガー」が人気でしたが、このような展望施設はありませんでした。

  

眼下に舞子公園が広がる場所で、幹事長の一風さんが、孫文記念館・移情閣、旧武藤邸、ホテルセトレや、舞子ビラ・旧木下家住宅、アジュール舞子などを目で追いながらメンバーに説明。

「家から電車で10分だけど、ここには来たことなかったわ」

垂水区は史跡や見どころも多いのですが、RANDOM句会の吟行は初めてです。

 

金網越しの潮風が心地よい遊歩道を回ると「海上47mの丸木橋」があります。強化ガラスとわかっていても、透けている海を見ながらガラスの上や丸木橋を歩くのは怖い。手摺りにつかまって渡ります。

ラウンジではこの日、近辺の風景を描いた水彩画の展示をしていましたが、五月の節句の武具飾りも置かれていました。

舞子海上プロムナードを出てから見学するのは、孫文記念館・移情閣(呉錦堂邸)と旧武藤山治邸。今は移築されて離れていますが、2つの建物は100年以上前、舞子海岸に並んで建っていました。

かつての舞子や垂水がどんなまちだったのか、振り返ってみます。 

垂水のまち-石走る水に五月の風立ちぬ 閒石-

垂水は、1941年に神戸市に編入されるまでは明石郡。六甲山系を背景に持つ大都会・神戸とは雰囲気の違う海と丘の広がる明るい田舎のまちでした。

「延喜式」(905年)に垂水郷の名があり、「滝の茶屋」の地名もあることから、万葉集の志貴皇子の歌、

石激る垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも

は垂水を詠んだ歌であると、地元では平磯公園に歌碑を建てています。

東から塩屋谷川・福田川・山田川と小さな川があり、川沿いに集落、河口に漁村ができます。垂水は神社やお寺が多く、伝統行事やお祭りがよく残っています。盆踊りも盛んで、「垂水音頭」「五色流し」は500年の歴史があると言われ、「舞子音頭」、「塩屋音頭」も地元で唄い継がれています。

江戸時代後期になると、舞子一帯は、淡路島を望む白砂青松の「舞子の浜」として天下に知られます。安藤広重(1797-1858)は、『六十余州名所図絵』に播磨国を代表する名所として「播磨舞子の浜」を描き、長崎のシーボルトは1826年の江戸参府紀行の往路でこの浜を歩いています。幕末には舞子に砲台も築かれました。

      

明治になると、舞子海岸に萬亀楼、左海屋、亀屋といった料理旅館が建てられ、伊藤博文や井上馨らが訪れます。明治天皇は舞子の浜に1885年から7回行幸し、1893年には今の舞子ビラの場所に有栖川宮の別荘も建ち、1900年に舞子公園は兵庫県立都市公園1号となります。

神戸から明石までの鉄道も、1888年に現・JR西日本が、1917年に現・山陽電鉄が開通。

塩屋海岸には外国人の別荘が、垂水には資産家の邸宅や別荘が次々と建てられてゆきます。

篠山市の「お菓子の里丹波」に移築されている旧・垂水警察署の洋館は1917年に海神社のそばに建てられた四本邸。現在「舞子ホテル」の洋館は1919年に建てられた日下部邸です。

南蛮美術の収集家・池長孟も垂水に別荘を所有していましたが、茨木市の山里で発見された一枚の小さな絵の購入のため1935年に売却します。絵は「ザビエル像」。現在は神戸市立博物館所蔵です。

神戸市内から学校も移転、1932年頃にはジェームス山に外国人住宅街ができ、1933年には現・国道2号も完成します。

一方で、田んぼや畑、雑木林、小川、ため池、牧場、川原、花咲く丘などの自然は残されていました。

雲白き丘に五月の花と臥す 閒石

野ばら咲きぬ幼き唄はみな忘れ 閒石

俳人・橋 閒石(1903-1992)は、石川県金沢市出身ですが、1931年に垂水に新設された兵庫県立神戸高等商業学校(神戸商科大学を経て現・兵庫県立大学)の英文学教授となり、1968年の定年退職まで37年間、「垂水の商大」の教壇に立ちました。

答案の包重たく夕雲雀 閒石

朝苺ホメロスの詩を読み初む 閒石

垂水は戦災も比較的少なく、高度経済成長期の頃から神戸や大阪のベッドタウンとして人口が急増し、時代が豊かになると史跡も整備され、1974年に大歳山遺跡公園、1975年には五色塚古墳が復元されます。

前方後円冴返る日を瀬戸に浸し 閒石

古墳青みたり乳母車来て遊ぶ 閒石

 

夢レンズ日輪を呑みたる蟇の動きけり 閒石-

 

孫文記念館・移情閣の西隣に、黒いドーナツのような形の石の彫刻があります。明石海峡大橋架橋5周年の2003年に建てられた福崎町出身の彫刻家・牛尾啓三氏による記念碑「夢レンズ」。

「夢の架け橋」だった明石海峡大橋は、半世紀かけた技術の集積で完成しましたが、生みの親は土木工学博士で摩耶埠頭やポートアイランドの埋立事業を進めた元・神戸市長の原口忠次郎氏(1889-1976)。「夢レンズ」は氏の偉業をたたえる記念碑です。

黒い輪を覗くと新緑の淡路島が見えました。気温が上昇、青空も広がり気持ちのいい風が吹いています。旗を持ったガイドに先導された団体も歩き、平日ですが公園は賑わってきました。 

孫文記念館・移情閣-送り出てそのまま春を惜しみおり 閒石-

 

孫文記念館・移情閣では、上履きにはき替えて見学。赤いカーペットが敷かれ、1階に中国の革命家・孫文(1866-1925)の資料、2階に神戸の貿易商・呉錦堂(1855-1926)の資料を展示。2000年にこの場所に復元されましたが、外観も内装も美しく管理されています。

孫文が1913年3月に舞子の呉錦堂の松海別荘を来訪したのを記念して、1915年に呉錦堂が別荘の一部として建てたのが移情閣。彼はこの年、還暦でした。窓から移り変わる風情を楽しめることや祖国への望郷の想いから「移情閣」と命名したようですが、地元では「舞子の六角堂」と呼んできました。コンクリートブロック造りで八角三層、外装は淡いグリーンです。中国式の楼閣ではなくヨーロッパの古い城か塔のような外観で、海岸に建てられたので灯台のようにも見えます。呉錦堂はわが家に招いた祖国の英雄・孫文を建物として残したかったのかも知れません。

建物の内部は中国風で、銘木に彫刻が施され、壁は緑地に金の模様の「金唐紙」の壁紙で復元、天井には呉錦堂が交流を持った中国の要人などの書が「扁額」にして飾られています。孫文の書いた「天下為公」の書もレプリカで置かれていました。

呉錦堂は、中国浙江省寧波に生まれ、31歳の1886年に来日。長崎、大阪で行商などをし、35歳で神戸に落ち着いて、神戸と上海・寧波などを拠点に貿易、海運から製造業へと次々と事業を展開、巨万の富を築きます。舞子の駅の山手に1万坪の土地と屋敷(昭和初期の山陽電車の路線図では「呉錦堂桜桃園」)を所有し、籠池通にも洋館を建てています。籠池通の洋館には呉錦堂没後、蒋介石が立ち寄っており、ヒマラヤ杉が最近まで残っていました。舞子で暮らした頃の呉錦堂は、普段は屋敷で大勢の使用人に囲まれ、客人の接待や、気が向いたときには舞子公園を抜けて松海別荘・移情閣で海を眺めたのでしょう。

 

孫文は、中国でも台湾でも「国父」とされ、南京の中山陵に眠っています。広東省に生まれハワイで教育を受けて香港で医師となった後、清朝打倒を志して国を追われ、1895年に日本に亡命。東京や横浜で活動し、宮崎滔天、頭山満、犬養毅、梅屋庄吉ら多くの日本人の支援を受け、外遊で世界的にも知られるようになります。ロンドンで出会った和歌山の知の巨人・南方熊楠(1867-1941)とはその後も親交を続けています。孫文には欧米列強のアジア進出への抵抗である明治維新と中国革命は同じ目的との思いがありました。孫文を身近に見ていた宮崎滔天の息子、宮崎龍介によれば「あまり背の高い人ではなかったが、にこにこした非常にやさしい人」だったそうです。

1906年に東京で中国革命同盟会を結成し、1912年の辛亥革命で中華民国が誕生すると、孫文は臨時大総統に就任しますが、大総統の座を袁世凱に譲り、1913年2月に鉄道建設の資金調達のために日本を訪れます。

東京での交渉の後、各都市を巡り、3月13日に神戸に到着。アジア貿易で栄える神戸は経済界と華僑社会の関係が極めて良く、市内各所で歓迎会が開催され、翌14日には舞子の呉錦堂邸・松海別荘で昼食会、夜は神戸市主催の市長、知事、地元実業家らの歓迎宴に招かれます。孫文が舞子の呉錦堂邸にいたのは2時間ほどでした。

47歳の孫文と58歳の呉錦堂が中央にすわり、孫文に同行した宋嘉樹(宋三姉妹の父)や日本のマッチ王・瀧川辨三など20人ほどが並んで記念写真を撮っています。孫文はくつろいだ表情、他のメンバーも足を組んだりしていますが、呉錦堂だけは背筋を伸ばし両手を膝の上に置いて緊張した面持ちで写っています。陳舜臣さんはこの写真撮影のことをちょっと皮肉って小説に書いているとか。

 孫文は、その年8月には袁世凱の独裁政治のため再び日本に亡命。袁世凱の死後も中国は軍閥による混乱が長く続きます。日中関係は1915年の対華21カ条要求で悪化します。1917年のロシア革命、1919年の五・四運動などにより、中国の民衆の反日の動きが活発化してゆきます。

1924年11月、呉錦堂ら華僑とも親交が深い神戸商業会議所会頭の瀧川儀作(1874-1963)は、知事、市長と協議の上、孫文を神戸に招き、県立第一高女の講堂で、「大アジア主義講演」を行います。孫文は「日本ハマサニ中国ヲ助ケ不平等条約ヲ廃スベシ」と題し、会場を埋め尽くす数千人の聴衆に、仁義道徳を基礎にした大アジア主義の実現を訴えます。孫文は翌年1925年に北京で「革命なお未だ成功せず」の言葉を残して癌のため59歳で亡くなります。孫文の訴えは届かず、日中戦争が始まり、戦争の終結は20年後、日中国交回復は50年後でした。

呉錦堂は、孫文が亡くなった翌年、神戸で70歳で亡くなり、故郷の浙江省寧波に埋葬されます。神戸と寧波で水利事業や学校建設などの社会事業を行い、西区神出町には彼がつくった「呉錦堂池」が残っています。文化大革命時に呉錦堂の墓の事績の碑は破壊されましたが、後に復元されています。

移情閣は、戦時中は徴用され、戦後は神戸華僑総会が迎賓館として管理します。日中国交回復から10周年の1983年、神戸華僑総会の陳徳仁氏(1917-1998、司馬遼太郎の「街道をゆく・神戸散歩」に登場します)が坂井時忠知事に提案し、兵庫県が寄贈を受けて改修、1984年から「孫中山記念館」として一般公開されます。架橋建設のため1994年に一旦解体されたため、目の前の明石海峡が震源だった1995年の阪神・淡路大震災をこの建物は見ていません。

建物の外に出ると、庭に植えられたハマナスが咲き、ツワブキの緑が鮮やか。松も良く手入れされています。移情閣の前には孫文像が置かれ、われわれを見送ってくれました。再見!

 

芝生広場を横切り、1936年に国道拡幅で移転した料理旅館「亀屋」の跡に建立された明治天皇御製碑へ。3つの歌が刻まれています。

播磨潟(せき)舞子の浜に旅寝して見し夜恋しき月の影哉

あしたづの舞子の浜の松原は千代を養ふ處(ところ)なりけり

播磨潟(せき)舞子の浜の浜松のかげに遊びし春惜しぞ思ふ

芝生広場は今は一面のクローバー。踏んでもふわふわと気持ちよく白い花が咲き誇っています。

ここは播州 舞子の浜よ 前に見ゆるは ありゃ淡路島

お盆にはこの広場に櫓が組まれ、舞子音頭に合わせて地元の盆踊り大会が行われます。 

旧武藤山治邸-行春のうしろ姿の艶なりけり 閒石-

 

旧武藤山治邸も、受付で上履きにはき替えて内部を見学。

日本の紡績王・武藤山治(1867-1934)が1907年、40歳の頃に建てた洋館です。

その頃、呉錦堂邸、鐘紡特約店「八木商店」の八木与三郎邸、武藤邸の三軒は、50m間隔で舞子海岸に並んでいました。三家は家族ぐるみの付き合いで親しく往来し、武藤家の二女は幼馴染の八木家の長男に嫁いでいます。

この建物は造りも凝っていますが、部屋に置かれた家具はフランスから輸入し、階段室や壁には著名画家の油絵を飾るなど、ハイカラな明治の香りが感じられます。食堂も別棟の厨房で調理したものを運ばせたようです。

明治時代、日本を近代化するには、英国から遅れること1世紀ですが、紡績業による産業革命が必要でした。

夏目漱石や正岡子規と同年代の武藤山治は、鐘淵紡績㈱に兵庫支店支配人として入社し、経営に34年間携わり、鐘紡を日本有数の企業にします。武藤は会社の業績を上げるだけでなく、日本の慣習にドイツやアメリカの経営手法を取り入れた「経営家族主義」と「温情主義」による日本的経営を考案して実践し、従業員たちから絶大な支持を受けます。

武藤山治と呉錦堂の出会いは古く、呉錦堂が中国綿の売り込みに、創業間もない鐘紡兵庫工場の支配人の武藤を頻繁に訪ねたのが発端です。当時、武藤は30歳前後、呉錦堂は42、3歳でした。

ともに中山手に住んでいた頃、武藤は気心の知れた呉錦堂の財力で鐘紡の危機を回避しようとして、兜町で株売買の仕手戦に巻き込まれ(呉錦堂・鈴久事件)、絶体絶命の危機に直面します。その危機を救い、彼らを経営者としてさらに成長させたのは、武藤を慕う鐘紡の従業員たちでした。元祖・慶応ボーイの武藤は、人前で平気で手鼻をかむ呉錦堂に紳士らしいマナー教育をしようとして失敗したことも書き留めています。

武藤は政界にも進出し、政界引退後は福沢諭吉が残した『時事新報』で舌鋒を振るい、鎌倉の自宅近くで凶弾に倒れて亡くなります。

 

旧武藤邸は、主が亡くなった後、鐘紡㈱の福利厚生施設「鐘紡舞子倶楽部」として舞子海岸に残されていましたが、架橋建設に伴う国道2号の拡張工事のため、1995年に洋館のみ垂水区狩口台に移築。2007年にカネボウ㈱が兵庫県に建物と家具・絵画・蔵書等調度品を寄贈し、県は舞子公園に移築・修復しました。

鐘淵紡績㈱・カネボウ㈱は、2008年に無くなり、今は「カネボウ」のブランドが残るだけです。武藤が手塩にかけた鐘紡兵庫工場は、戦災で閉鎖し、神戸競輪場、御崎公園、神戸市中央球技場を経て、今は御崎公園球技場(ノエビアスタジアム神戸)になっています。工場付属診療所から始まった鐘紡病院は、神戸百年記念病院として存続しています。

彼の墓所は、舞子の浜と明石海峡を見下ろす舞子陵にあります。舞子陵は武藤家所有の土地でしたが、戦後、神戸市に寄贈しています。舞子陵の地下には、明石海峡大橋と垂水ジャンクションを結ぶ舞子トンネルが通っています。呉錦堂がかつて所有した舞子台の土地もトンネルの一部になっているようです。舞子の変貌ぶりには呉錦堂も武藤山治も驚いていることでしょう。

ホテルでの集合時刻が近づいてきました。武藤邸の1階の休憩コーナーにメンバーが集合し、しばし黙々と句づくりに専念。

 ホテルセトレの東側には、アジュール舞子が広がっています。800m続く人工の白い砂浜で、背後には多くの松が植えられています。アジュール(azur) はフランス語の「青」。南仏コートダジュールのような美しい海辺となるよう一般公募で命名。バーベキュー場があり、今日は10人ほどの若者のグループがバーベキューをしていました。夏には海水浴客で賑わいます。 

ホテルセトレ-顔じゅうを蒲公英にして笑うなり 閒石-

 

今日の昼食と句会の場所は、舞子公園とアジュール舞子の間の岬に建つ「ホテルセトレ」。半円形の白いお洒落なホテルです。

幹事長の一風さんの姪っ子がここで結婚式をし、気に入ったので奥さんとときどき食事にくるとか。平日でもレストランは女性客でいつも満席だそうです。下見のとき、このホテル内で昼食と句会ができないか係りの人と相談し、20人収容のパーティー会場を4時間貸切にしてもらうことにしました。

昼食のスタートは12時。パーティー会場の「ホワイトハーバー」は目の前に青い海が広がる白い部屋。結婚式の二次会や経営者のセミナーに利用され、われらシニアグループにはちょっと不似合ですが、特別メニューも用意してもらいました。

全員、テーブルに着いて、スパークリングワインで乾杯。

若いスタッフが専属で付いてくれているので、幹事長の一風さんも一安心です。

グラスに白ワイン、ウーロン茶、ビールが注がれ、イタリア料理の前菜の皿が各自の前に置かれます。白い皿の上にカラフルな料理、まさに芸術。一風さん、一言。「ナポリに来たようや」

 

淡路島や近郊の新鮮な食材を使って料理しているのが、このホテルの自慢だそうです。メインディッシュは香りよく焼いた魚料理。自家製パン(フォカッチャ)はオリーブオイルで。締めくくりはドルチェとカフェ(デザートとコーヒー)。

稲村さんは昨日遅くまでキャベツの出荷作業に追われ少々お疲れ気味。次回の句会の候補地選びから懐かしい活版印刷の時代のことまで、尽きない話とお酒の酔いで、時計を見ると、午後1時をとっくに過ぎています。

楽しいランチの時間は終わって、次は俳句の時間。一旦部屋から出て、テーブルを句会用にセットし直してもらいます。

外に出ると、青空に潮風が気持ちいい。白いウエディング姿の「前撮り」のカップルとカメラマンがいます。カップルは小顔の美男美女。わたせせいぞうのイラストのように爽やか。

舞子海岸句会―――――――――――

各自5枚の句を書いた短冊の提出は午後1時40分。集まった短冊をばらして選句表に清書。

清書した選句表を、受付の事務所で人数分コピーします。

 

全員に選句表を配付し、午後2時30分までに、各自、自作以外の気に入った6句を選びます。特選1句2点、その他5句は1点で、各人の持ち点は計7点。参加者13名の総点数91点の争奪戦です。

午後2時30分、つきひさんの進行で、特選句から順番に選んだ理由も挙げながら発表。午後3時にはホテルからお茶のサービス。65句全部に点数が付けられて作者が明かされます。

選句の発表

今日できた名句を一挙ご紹介。句の数字は句会での得点、は特選句です。

一風

舞子浜五月の架橋卯浪寄す

初夏の海ガラスに乗りて足すくむ ②

初夏なのに人まばらなり移情閣 

若葉風明石舞子の浜を這う ①

酔っぱらいかわいい人に五月晴

さくら

春潮を眼下に回廊遊歩道 ②

孫文も見し海峡や風光る ④

一面の白爪草の中に坐す ③

迎えらる桧の香(かをり)夏館

風薫る白き卓布のレストラン ②

蛸地蔵

夏立ちて大船くぐる大橋や

夢レンズ見通す先の初夏の岸 ①

松若葉歴史を留む移情閣 ②

松の群舞子の潟(せき)の夏を呼ぶ ①

海望む洋館の窓へ夏を待つ

だっくす

若葉冷え風吹きぬけるプロムナード ①

玻璃ごしに卯浪の上を闊歩する ④

淡路より見し橋初夏の舞子より

桜しべ降るを眺めて急かさるる ①

松落葉舞子の浜の松林

つきひ

大橋の展望ラウンジ武具飾る ④

夏潮をはるか眼下に丸木橋 ②

大橋のたもとに降れる桜しべ ②

万緑の島夢のレンズにすっぽりと ③

風薫る金唐紙に扁額に ①

稲村

キャベツ出し舞子句会は大荒れに

潮はやし舞子海岸初夏の風 ②

夢レンズ橋のはらぐち五月晴

風薫る友好やかた移情閣

ホテルでは食の芸術五月会

どんぐり

八角を六角堂てふ夏霞

ベランダに佇ちて大橋まのあたり

夏潮のゆらぎガラスのゆがみかな ④

玫瑰(はまなす)の紅あざやかに移情閣

白砂の昔を偲ぶ松の芯 ④◎◎

大橋と往きかう船と春の波 ③

春潮に大きく張りし夢の橋 ②

春潮の流れにまかす淡路島 ①

日中の平和な春や六角堂 ②

舞子浜淡路島へと夢さそう

播町

巨大なる橋桁てふてふ渡るのか ①

孫文の休息の地や海市立つ ①

夏涛(なみ)やむかし革命というロマン ④

ジャズライブにパティシエもいて夏館

泡立ちしワインの白も立夏かな ③

ひろひろ

世界一明石大橋淡路初夏 ①

丸木橋一時ためらう初夏の海 ①

遊歩道金網越に初夏の海 ③

移情閣赤の絨毯外は初夏 ②

句会初夏吾の拙さも個性あり ② 

へるめん

彼の地より卯浪寄せ来る移情閣 ④

心さわぐ青春はつ夏の浦風

潮風とワインに酔ひて今日の宴 ②

白壁あれば遺影の用意卯浪寄す ①

浦波に酔ひを放ちて五月かな ③

見水

パノラマの舞子浜寄す皐月波 ②

夢レンズ海光眩し南風 ②

夏来る夢見ぬ男のゆめの跡 ①

浜に出てもろ肌をぬぐ呉先生 ①

吊り橋の消えゆくところ青岬

ろまん亭

体操を終えて集いぬ藤の下 ①

カキツバタ雨の日に似合うスマの寺

足の下ガラスの下は夏の海 ①

声やさし甘えたくなる春おぼろ ①

文化財のイスひっそりと五月寒む

高得点句

本日は得票が分散しましたが、4点獲得した句が7句ありました。

大橋の展望ラウンジ武具飾る つきひ④◎

端午の節句の飾りも置かれ日本らしいおもてなし。

玻璃ごしに卯浪の上を闊歩する だっくす④◎

闊歩したかったけど手摺りを握って端をこわごわ。

夏潮のゆらぎガラスのゆがみかな どんぐり④

古い洋館の窓から臨む夏の海。ロマンチックです。

彼の地より卯浪寄せ来る移情閣 へるめん④◎

台湾か中国か。孫文を慕う波は今も打ち寄せます。

孫文も見し海峡や風光る さくら④◎

1913年3月14日。孫文も眺めた舞子の美しい海。

夏涛(なみ)やむかし革命というロマン 播町④

辛亥革命もロシア革命も今では遠い過去の出来事。

白砂の昔を偲ぶ松の芯 どんぐり④◎◎

手入れされた形のいい松ばかり。さすが舞子の浜。

表彰式

 

獲得点数により順位が決定。表彰式です。

優勝はつきひさん(12点)、続く高得点者はさくらさん(11点)、へるめんさん(10点)。

他のメンバーの得点は、播町さん(9点)、ひろひろさん(9点)、どんぐりさん(8点)、英さん(8点)、だっくすさん(6点)、見水さん(6点)、蛸地蔵さん(4点)、一風さん(3点)、ろまん亭さん(3点)、稲村さん(2点)。つきひさんとひろひろさんは出句した5句すべて得点しパーフェクト。

今回の賞品は、幹事のさくらさんが垂水漁港の売店で選んできた垂水の特産品です。 

1位 (優勝) 明石海峡大橋賞                   いかなごくぎ煮神戸ビーフ入

2位       移情閣賞              いかなごくぎ煮ピリ辛味

3位       舞子公園賞            須磨新海苔味付袋入

4位       敢闘賞・舞子倶楽部賞       須磨新海苔味付

5位       参加賞               いかなごくぎ煮

6位       参加賞               いかなごくぎ煮

6位       参加賞               いかなごくぎ煮

8位       参加賞               いかなごくぎ煮

8位       参加賞               いかなごくぎ煮

10位      参加賞                いかなごくぎ煮

11位      参加賞                いかなごくぎ煮

12位      ブービー賞              たこめしの素2合用

13位      参加賞                いかなごくぎ煮 

女性軍対男性軍では、女性軍5名の得点が47点、男性軍8名の得点が44点で、僅差で女性軍の勝利。

午後4時ちょうどに句会は終了しました。

ホテルを出てもまだ明るい青空。国道2号を渡り、舞子公園の松林を抜けてJR舞子駅まで歩き、散会しました。

 

今回の事前準備と幹事の一風さん、さくらさん、お疲れさまでした。天気に恵まれた、垂水での初めての吟行、いかがでしたか。

 

 合歓咲くや語りたきこと沖にあり 閒石

秋の句会は、9月頃から準備を始めます。いい候補地があれば幹事長にご連絡を。

 

2018.5 写真/romantei ,文・イラスト/mimizu