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神戸RANDOM句会

シニアの俳句仲間の吟行・句会、俳句紀行、句集などを記録する。

見水の俳句紀行

10月に入り今年もあと2ヵ月余り。秋は短い。新しい手帳とカレンダーを買い、チューリップの球根を植えた。

去年今年貫く棒の如きもの 虚子

NHKラジオの昭和26年の新春詠で、高浜虚子は、新年が来ても変わることなく過ぎてゆく時間を「棒」だと言ってのけた。鎌倉駅の構内に掲示されたこの句を見た川端康成が随筆に書いて世に広まり、代表句の一つになった。

国内のコロナのワクチン接種は11月に完了し、年内には全世界分のワクチンが製造されるという。が、終息は見えてこない。第5波の大波が低くなり緊急事態宣言は解除されたが、子供への感染や新しい変異株、ブレークスルー感染、ワクチンの追加接種、第6波の到来、経済への影響、失業問題など、去年から続くコロナへの懸念は尽きることなく「棒」のように続いている。

来年のNHK大河ドラマは、三谷幸喜の「鎌倉殿の13人」。

鎌倉初期の陰謀と暗殺の展開は1979年の「草燃える」(原作・永井路子)と同じだが、今回は現代風の喜劇のようだ。書店も、「論語と算盤」や大佛次郎の「激流」など渋沢栄一ものから、永井路子の「炎環」「北条政子」に交代。鬱陶しいコロナ禍を忘れさせるドラマが見たい。

いざ鎌倉

コロナがまだ影も形も無かった3年前の晩秋、横浜での所用の翌日、鎌倉を訪ねた。

神戸RANDOM句会・湊川句会の直後で、吟行地での福原遷都や湊川の戦いも念頭に句会のまとめをしていた。福原遷都といっても半年で慌しく京に戻り、現地にはかつて平家が暮らした遺構の一部が残るのみ。永井路子説では「頼朝は清盛を継承し、海のある都を築いた」とのこと。鎌倉でそれを一目確かめたい。横浜から鎌倉は電車で30分足らず。江ノ電にも乗ってみたい。

鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな 晶子

鎌倉は1966年に中学の修学旅行で立ち寄ったきり。富士五合目から翌日見学する東京へ向かう観光バスが湘南を走り、ガイドさんが加山雄三の話をすると歓声が上がった。高度経済成長まっ盛りで、ベトナム戦争が激化し、中国では紅衛兵、羽田にビートルズが来た年だった。鎌倉は日暮れ前に大仏(阿弥陀仏)の前をぞろぞろ歩いた記憶しかない。

鎌倉時代の始まりは、頼朝が征夷大将軍になった「いい国作ろう鎌倉幕府」の1192年だった。最近は、頼朝が守護・地頭を置いた「いい箱作ろう」の1185年だそうだ。冒頭の「伝源頼朝像」も、描かれたのは鎌倉初期より後で、人物は足利尊氏の弟の足利直義ではと論争が続いているらしい。

秋高し出航祝ふ浜の風

朝早く元町のホテルを出たが、横浜駅の恐るべき通勤ラッシュに遭遇。横浜駅のコインロッカーに荷物を預け、乗り換えて鎌倉へ。朝の8時過ぎに着いた。駅前広場から開店準備中の人気スポット小町通りを鶴岡八幡宮に向かって上る。

冬の朝鎌倉駅に降り立ちて

鎌倉への興味は、前年に「DISTINY鎌倉ものがたり」を観たこともあった。この映画は、「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズと同じく、原作が西岸良平の漫画で、山崎貴が監督。得意なCGを駆使し、妖怪がうごめく鎌倉が舞台の奇想天外な映画だった。

しらぬ海や山見ることのうれしければいづくともなく旅立ちにけり 子規

正岡子規が友人の誘いで鎌倉を旅したのは、明治21年の夏。大雨の中、頼朝の墓や鎌倉宮を詣で、初めて喀血する。

その5年後、「日本新聞」に入社していた子規は、「鎌倉一見の記」という俳句・短歌紀行文を書く。

前夜に藤沢に泊まり、当時は江ノ電は無かったので、朝一番の汽車で大船から横須賀線に乗って、鎌倉・由比ヶ浜で静養中の隠士(と匿名だが、隣人で日本新聞主筆兼社長の陸羯南)を訪ねる。歌や発句の話で半日過ごし、鶴岡八幡宮、建長寺、円覚寺を参り、由比ヶ浜で休む。早朝、羯南と浜を散策し、羯南の案内で長谷を歩く。最終日は頼朝の墓などを巡った。俳句の部分のみ抜粋する。

 藤沢から鎌倉に赴く道々うかみ出づる駄句の數々

  岡あれば宮宮あれば梅の花
  家一つ梅五六本ここもここも
  旅なれば春なればこの朝ぼらけ

 由井が濱

  陽炎や小松の中の古すすき
  春風や起きも直らぬ磯馴松

 鶴が岡

  銀杏とはどちらが古き梅の花

 建長寺

  陽炎となるやへり行く古柱

 由井の浦浪を聞きつつ

  鎌倉は井あり梅あり星月夜

 長谷の觀音堂

  歌にせん何山彼山春の風

 大佛

  大佛のうつらうつらと春日かな

 頼朝の墓

  梅が香にむせてこぼるゝ涙かな 

恩人を見舞う春の旅だったが、大仏に700年の時を思い、苔むした頼朝の墓に涙する。日本新聞を拠りどころに俳諧革新に邁進する自身を重ねたのか。

 春の山屍をうめて空しかり 虚子

頼朝の墓を詠んだ句会では元気だった虚子は、わずか9日後、85歳で亡くなる。

頼朝の都

冬空にここぞと立てり赤鳥居

コロナ禍以前、鎌倉には、年間延べ2,000万人もの観光客が訪れている。

「今の鎌倉はこんな街なのか」と、朝の小町通りをしばらく歩くと、鶴岡八幡宮の境内の前に来た。赤い三の鳥居があり、境内の前に真っすぐな広い通り。真ん中を貫くのは「段葛(だんかずら)」。石垣で一段高くし、御神体と将軍、執権が悪天候でも歩けるようにした。由比ヶ浜まで続く若宮大路だ。

大正の初めに築かれた須磨の離宮道もそっくりの構造である。

段葛桜並木は葉を落とし

司馬遼太郎は、亡くなる前年の平成7年に「街道をゆく・三浦半島記」を書き、鎌倉時代への熱い思いを綴っている。

頼朝は平氏追討にあたって、父祖の地・鎌倉を幕府の都城とする。南に海、三方を山で囲まれた土地。源氏の氏神である鶴岡八幡宮を由比ヶ浜から移して新しく築き、浜まで若宮大路を通した。基本はこれだけの小さな首都で、諸国に守護と地頭を置き、宋と交易し、元寇を撃退し、この国を150年間支配した。

冬ざれの参道長し鶴岡宮

境内に入ると正面に舞殿と鶴岡八幡宮が見えている。広い。ここは幕府の政庁でもあった。

実朝を偲ぶ親子の銀杏の樹

石段に山の紅葉降りやまず

八幡宮に登る大石段の横には大銀杏があったが、平成22年の強風で倒れた。移植した太い幹と新しく生えた若木が並んで参詣者を出迎えている。宮司らがしきりに落葉を掃いている。

 鎌倉に実朝忌あり美しき 虚子

実朝の墓は、源氏山を背にした頼朝の菩提寺・寿福寺に、母の北条政子の墓とともにある。ここには高浜虚子や大佛次郎も眠っている。

舞殿は今日は凩舞ふばかり

鎌倉の大路の果ての冬の海

八幡宮の絢爛たる建物を回って外に出る。大石段の下に、神楽を奉納する舞殿。

 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

と、頼朝と政子を前に、静御前が義経を恋い慕って歌い舞った舞台である。

その先に若宮大路。由比ヶ浜の沖は霞んで見えないが、この光景は800年間変わらない。

清盛が兵庫で築こうとしていた海の都のイメージが重なった。

 ふゆしほの音の昨日をわすれよと 万太郎

浅草っ子の久保田万太郎は、戦後焼け野原の東京を離れて、戦災の少なかった鎌倉で新生活を始め、10年住んだ。

大石段を下り、境内を抜けていくと、広い源氏池の周りに白い宮鳩が群れている。

 徘徊す蓮あるをもて朝な夕な 漱石

夏目漱石は、鎌倉に移住した友人がいて、しばしば鎌倉を訪れた。作品にもよく登場する。

若宮大路に沿って下り、鎌倉駅に戻る。

午前10時。JR鎌倉駅に隣接する江ノ電の鎌倉駅へ。

 来て見れば長谷は秋風ばかりなり 漱石

長谷の大仏などには寄らず、江の島を見に行くことにした。片道約20分。

江ノ電に乗って

江ノ電に家々迫る冬隣

単線の小さな江ノ電は、駅の間隔が短く、家々や生垣をすり抜けるように走り、小さな踏切が多い。映画「DISTINY鎌倉ものがたり」でも江ノ電をいろいろ茶化したシーンがあった。

   

高浜虚子は、江ノ電が全線開通した明治43年から、長野県小諸での3年間の疎開をはさんで、ずっと江ノ電「由比ケ浜駅」近くの沿線で暮らした。最初は帰化イギリス人の借家、その後近くに2度引っ越した。明治35年に子規が亡くなって小説家を志すが、鎌倉移住後の大正2年に河東碧梧桐の新傾向俳句に対抗して俳壇に復帰する。

 春風や闘志抱きて丘に立つ 虚子

大正から昭和初期、「ホトトギス」から俊英の俳人が輩出する。最後の庵跡に烏帽子形の小さな句碑がある。

 浪音の由比ヶ浜より初電車 虚子

虚子と娘の星野立子を顕彰する「鎌倉虚子立子記念館」は二階堂にある。

 馳けてゆく水際遠し雲の峰 立子

碧梧桐の運動に参加して自由律俳句を提唱し、山頭火や放哉を指導した荻原井泉水も、昭和3年から鎌倉に住み、北鎌倉で亡くなっている。

 わらやふるゆきつもる  井泉水

吹き通る風ここちよき海の家

明治22年に大船から鎌倉、逗子を経て軍港のある横須賀まで横須賀線が開通する。若宮大路を横断し、煙を吐く汽車が鎌倉の町を走った。由緒ある寺社を遺す寒村の鎌倉は、明治になって西洋式の海水浴を取り入れた療養所や旅館が建ち始めていた。横須賀線の開通により、政治家、官僚、軍人、財界人、皇族、華族の避暑・避寒の別荘が続々と建ち、一般にも人気が高まっていく。漱石の代表作「こゝろ」(大正3年)は、鎌倉での海水浴から話が始まっている。

 藤の花軒ばの苔の老いにけり 龍之介

芥川龍之介は、大学卒業後の24歳、大正5年末に、横須賀の海軍機関学校の英語教官となる。鎌倉に下宿したが、虚子庵に近かった。

高浜先生と同じ鎌倉に住みたれば、ふと句作をして見る気になり、十句ばかり玉斧を乞ひし所、「ホトトギス」に二句御採用になる。その後引きつづき、二三句づつ「ホトトギス」に載りしものなり。但しその頃も既に多少の文名ありしかば、十句中二三句づつ雑詠に載るは虚子先生の御会釈ならんと思ひ、少々尻こそばゆく感ぜしことを忘れず。…芥川龍之介「わが俳諧修業」

才能ある若い作家たちとの句会を虚子は楽しんだ。胃腸の弱い虚子は、りんごを常備していた。

 夏の月皿の林檎の紅を失す

 大正七年七月八日 虚子庵小集。芥川我鬼、久米三汀等来り共に句作。

 …高浜虚子「五百句」

芥川は横須賀にも住み、大正7年に再び鎌倉に居を構え、1年余りの新婚生活を送った。

彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がつたかげに。――彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。…芥川龍之介「或阿呆の一生」

教師のかたわら、「戯作三昧」「地獄変」「蜘蛛の糸」「奉教人の死」「枯野抄」など初期の代表作をここで書く。横須賀線の車内での出来事を書いた「蜜柑」は翌春の作。

汽罐車の煙残して枯野原

大正7年の8月から流行したスペイン風邪に、芥川は11月と翌年2月に2度感染。3月には感染した実父を看取った。句も残している。

 病中髣髴として夢あり

  凩や大葬ひの町を練る 大正7年

その後教師を辞めて専業作家(大阪毎日新聞社員)になり、東京に戻る。鎌倉での日々を後日も懐かしんだ。

鎌倉は魑魅魍魎の棲む花野

大正12年の関東大震災では、鎌倉でも多くの建物が倒壊し、津波の被害もあった。昭和5年に電車運転が開始され東京の通勤圏になると、人々が移り住み、作家や文学者たちも暮らすようになる。

東京にほどほど近く、風光明媚な別荘地で、土地代や家賃も高くないのが魅力だったのか。

鎌倉市は、戦前の人口は4~5万人、現在も17万人の街だが、昭和の時代に暮らした作家や詩人、文学者を50音リストからアップすると、

大佛次郎、川端康成、久米正雄、小林秀雄、今日出海、里見弴、澁澤龍彦、高見順、竹山道雄、立原正秋、田村隆一、永井路子、中村光夫、林房雄、深田久弥、吉田健一、吉屋信子…。

と、懐かしい名前が並ぶ。

彼らは親密なコミュニティを作り、「鎌倉文士」と呼ばれた。里見弴は、映画監督の小津安二郎と親しく、「彼岸花」「秋日和」の原作を書いた。「晩春」「麦秋」は鎌倉が舞台である。戦前・戦後に「鎌倉カーニバル」で町おこしをしたり、昭和39年には、鎌倉に押し寄せる宅地開発から歴史的景観と自然を守る日本初のナショナル・トラスト運動を展開し、これを機に昭和41年に古都保存法が制定されるなど、良き市民でもあった。

井上ひさしは1989年から亡くなるまで20年暮らし、現在は高橋源一郎さんらが住んでいる。

電車待つ先生今日も着ぶくれて

 鎌倉に清方住めり春の雨 万太郎

日本画家の鏑木清方や小倉遊亀も暮らし、漫画家・横山隆一も鎌倉の住人だった。

横山隆一は高知市出身で、大学帽に着物、下駄のいたずらっ子・フクちゃんの作者。昭和12年から世紀を超えた平成13年、92歳で亡くなるまで鎌倉に住み、鎌倉文士たちと交流した。

戦時中、フクちゃんはプロパガンダの漫画映画になり、米軍はフクちゃんを宣伝ビラに逆利用する。戦後50年経った頃、横山は米国大使館に原稿料を請求して金180円也を受領したという。

フクちゃんの漫画は戦後も人気で、昭和46年まで新聞に連載されて終結。サザエさんは今も元気だが、フクちゃんはすっかり忘れられた。

鎌倉駅から近い自宅の庭には桜の木・プール・藤棚があり、邸内には60㎡のアニメスタジオやホームバー、趣味の鉄道模型の部屋もあった。

 かまくらによひどれおほき櫻かな 万太郎

里見弴80歳、大佛次郎70歳の誕生祝いの野球大会を小学校の校庭を借りて開催。その流れで横山邸での宴会になった。野球見物の作家・学者・芸能人がぞろぞろ150人も集まり、庭にもあふれた。宴たけなわのとき雨が降り出し、したたかに酔った大佛次郎は見誤ってプールに落ち仰向けに浮いて笑っていた。皆で助け上げ風呂に入れたが、当人は何も覚えていなかったらしい。

花の庭残しフクちゃん里帰り

「横山隆一記念まんが館」は高知市のはりまや橋に、やなせたかしの元祖・「アンパンマンミュージアム」は香美市の山奥にある。はら たいら、黒鉄ヒロシも生んだ高知県はまんが王国を誇っている。

鎌倉の邸宅跡は、庭の桜・プール・藤棚を残して、今はスターバックス御成町店になっている。

御前様大船遠し息白し

鎌倉市の最北の大船には昭和11年から平成12年まで松竹の撮影所があった。「男はつらいよ」シリーズの葛飾柴又のとらやのシーンはここのセットで撮られた。

「男はつらいよ」で鎌倉がロケ地となったのは、昭和57年の第29作「寅次郎あじさいの恋」。寅さんとかがり(いしだあゆみ)が小学生の満男同伴でデートする。若宮大路で寅さんはむずかる満男を「歴史の勉強になるよ」となだめながら歩く。由比ヶ浜の材木座海岸を一望する極楽寺成就院のあじさいは圧巻だった。七里ヶ浜、江の島の40年前の賑わいが垣間見える。

あじさいの恋にときめく成就院

大船撮影所は、一部をテーマパークにしたが大赤字。完全閉鎖後、跡地をすべて売却。山田洋次監督は、「松竹通り」の通り名と「松竹前」の交差点名しか残っていない、とテレビ番組で嘆いていた。

この撮影所で名作を遺した小津安二郎や田中絹代、原節子は亡くなるまで鎌倉に住んだ。

解剖学者の養老孟司さんは、鎌倉で生まれ育ち、いまも暮らし続けている。

冬波の寄せくる七里電車ゆく

極楽寺のトンネルを抜けると海に出る。稲村ケ崎、七里ヶ浜。

相模トラフ、南海トラフで巨大地震が起きれば、海岸に高さ10mを超える津波が押し寄せる。人の多い鎌倉駅付近も激流となる恐れがあり、鎌倉市は街中にビルへの避難誘導などのサインを設置している。

 涼しさに海へなげこむ扇かな 子規

新田義貞は稲村ケ崎で金の刀剣を海神に捧げ、潮の引いた由比ヶ浜から大軍で鎌倉に攻め込んだという。執権・北条氏を見限り、足利高氏は京の六波羅探題を、新田義貞は鎌倉を襲撃し、鎌倉幕府は滅ぶ。

司馬遼太郎は、「街道をゆく・三浦半島記」で、「坂の上の雲」の思い出深い横浜・横須賀を書きながら、何度も頼朝に戻り、「鎌倉幕府がもしつくられなければ、その後の日本史は、二流の歴史だったろう。」、「この時代から日本らしい歴史がはじまる」、と言い切り、鎌倉では攻め滅ぼされた夥しい人々の骨の破片が今も見つかることを書いて紀行を締めくくっている。

頼朝の鎌倉残照枯尾花

鎌倉幕府は滅んでも、武士の都・鎌倉は残った。北条氏の残党が再興しようとして足利尊氏が鎮圧。その後、足利幕府の時代になるが、鎌倉は100年余り「鎌倉公方」として関東支配の拠点だった。が、京都と対立し、古河(茨城県)に拠点が移される。やがて戦国大名の早雲が小田原城を攻略して鎌倉入りし、北条氏を自称。小田原城を拠点に関東を制覇して5代続き、焼失した鶴岡八幡宮を再建する。1590年、秀吉は天下統一の最後となる小田原城の後北条氏を滅ぼすと、鎌倉に立ち寄って、頼朝像に対面し「あんたと私は天下友達だ」と大笑いしたという。

家康は関東に移封されると、鎌倉の寺院を復興。11代将軍・家斉が現在の鶴岡八幡宮本殿を造営する。

 目には青葉山ほととぎす初松魚 素堂

 鎌倉を生きて出でけむ初鰹 芭蕉

江戸時代、鎌倉は漁師の町でもあった。相模湾でとれた初鰹は鎌倉海岸から早船や早飛脚でその日のうちに江戸に運ばれ、江戸っ子は高値で買った。浮世絵には七里ヶ浜から望む江の島がよく描かれている。富士を遠く仰ぎ見ながら潮の引いた砂州を渡る「江の島詣」は、庶民の楽しみだったようだ。

この日は肌寒い曇り空で、荒れた海と江の島が見えるだけだったが、YouTubeには晴天の日の江ノ電の動画があり、七里ヶ浜から富士山がくっきり見えていた。

義経が鎌倉に入れず足止めされた腰越を過ぎ、藤沢市に入る。日蓮が法難にあった刑場跡に建った龍口寺の前を通って、江ノ島駅。

江ノ電を降りて江の島冬の人

初冬の平日に江の島に来る人は少ない。風があり、みなコートの前をしっかり締めている。

江の島を望む

湘南の果てまで続く冬の浜

鎌倉時代、江の島には幕府を守る弁財天が祀られた。今は展望台・レストラン・水族館・スパ・宿泊施設・仲見世通りなどのある観光地でマリーナもある。干潮時に陸地とつながるトンボロ現象の島ではフランスの人気観光地のモン・サン・ミシェルより一回り大きい。

江ノ島駅からは路地を歩き、橋の手前まで行った。浅瀬を海水が流れ、西側一帯に太平洋と湘南海岸が広がる。この雄大さは神戸では味わえない。

 絵の嶋や薫風魚の新しき 子規

食いしん坊の子規は、江の島でよほど美味い魚を食べたのだろう。

島の手前の本土側にも食堂が並んでいて、昼食にしようかと思ったが、まだ準備中の様子。駅前のカフェで休憩した。

駅前のカフェで旅情を温める

しらす丼と鳩サブレ

江ノ島駅から再び江ノ電に乗り鎌倉駅へ。

鎌倉駅前の小町通りは人が増えている。しらす丼の店を探し、店先の椅子で少し並んで入る。

木枯らしの小町通りでしらす丼

昼食はこれぐらいがちょうど適量。

この後、横浜駅に戻ってコインロッカーの荷物を取り出し、新横浜駅へ移動して新幹線で神戸まで帰る。土産は鳩サブレにしよう。

 鎌倉の春豊島屋の鳩サブレ 万太郎

小町通りを出て、若宮大路にある豊島屋本店に向かった。

冬鳩を追って大路の豊島屋へ

鎌倉に来るまで、鳩サブレがなぜ鎌倉の名物なのかわからなかった。鶴岡八幡宮の掲額の「八」が鳩の向き合わせになっていることと、境内の源氏池で白い宮鳩の群れを見て納得した。

鳩サブレは、明治末期に店に来た外国人がくれたビスケットを再現した銘菓。ハイカラなフレッシュバターの香りがいい。ビスケットに目の無かった漱石も、鳩サブレを食べたのでは。

 

鎌倉で遊ぶ・後記〉

コロナ禍の巣ごもり生活は2年近い。まだ泊りがけの旅はしていない。退屈まぎれに3年前に鎌倉で過ごした数時間の記憶を引っ張り出し、俳句紀行文にして遊んだ。

ふと、思いついて、「DISTINY鎌倉ものがたり」の主人公のミステリー作家・一色氏や漫画家・横山隆一氏の鉄道模型好きに誘われ、30cm×40cmのNゲージ(1/150)の鉄道ジオラマを作ってみた。鉄道模型の基本セットはあったので、材料は廃品の厚紙、発泡スチロール、無料ダウンロードや自作のペーパークラフトなどで出費はほぼゼロ。全体の重さは400gで文庫本3冊分ほど。普段は棚の上に収まっている。

江ノ電まがいの小さな電車が、踏切の多い線路を、家々の軒先すれすれに、5秒で一周する。駅名は「八里浜」、駅前タクシーの看板は「蘭陀夢タクシー」。洋館、パン屋、精肉店、魚屋、八百屋、理髪店、洗濯店、小山の上に社殿があり、石段の下には「八里浜食堂」がある。眺めていると知らない町を旅している気分になる。

コロナ禍の蟄居が長引かなかったら、こんな「箱庭療法」は思いつきもしなかったが、いい箱庭ができた。コロナ禍の終息する春を待ちながら、これからまた長い冬ごもりだ。

…六甲の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。…

神戸の裏六甲は厳寒期には日本海からはるばる雪雲が流れ込む。この冬は大雪が降るかも。

かまくらにいいはこ庭を持ち込みて

 

(2021.10見水記)

( 追記 ) 2022.9

参道脇の洗濯店の移転跡に、「小磯寿司」が開店しました。