この文章は高校の時の卒業文集に載せる予定であったが、こちら側のミスにより掲載できなかった文章である。ふと思い出したのでここに供養させたいと思う。

 

1蛇足

蛇足のエピソード自体は有名であるが、では蛇に足を書き足した彼(彼女かもしれない。ジェンダーバイアスには厳しい時代だから注意せねば)は一体何を思って足を書き足したのか。横にしか進めないガラガラヘビを憐れんだのかもしれない。若しくは、蛇でなく龍になりたかったのかもしれない。龍も蛇も爬虫類(多分!)だからおんなじようなものの気もするが。だが、私が不満に思うのは、ナゼ足だったのかという事だ。手でも羽でも耳でも角でもいいではないか。むしろツノがあった方がカッコいい気がする。さておき、そろそろ本題に入ろうと思う。まぁこの文章に果たして本題があるのかは疑問ではあるが。そもそも蛇足に本題が有ればそれは本筋になりうるのでは?本題がないからこその蛇足だとうもいえるが、ここでは蛇足であることには拘らないので、本題が何かであるかを決める事を本題にしたい。

 

2蛇手

蛇足である事には一切の拘りを捨てているので、もはや蛇足を超えて蛇の手である。蛇に手があった所でなんの役に立つかは無限に謎だが…

私が無限∞という存在に興味を持ったのはつい最近の事である。何せ常識が通用しないのだ。例えば、Σ(-1)^nは発散する事を既知として話を進める。

-1+1-1+1-1+1……

 -1+1-1+1-1……

この二式を足し合わせてみると-1+0+0+……となる。同じ発散する無限級数を足すと-1になるのか。否。無限級数において縦の足し算をしてから横に足すことはできないのだ*1

無限に関する常識の否定とはこんな感じである。まだまだ不思議はたくさんあるが、兎にも角(蛇を話題にして兎を出すのはなんたる皮肉)にも、数理哲学というのは、(私自身そこまで明るくないので詳しくはK先生*2に聞いてほしい)私を惹きつけて止まない分野の一つである。

*1これもK先生の受け売りなので不正確である事は容赦してほしい。

*2K先生は私の高校の時の数学教師である。

 

3蛇羽

ダバかダウかヘビハネか読み方は知らないが(サンダバだと語感がいい)、手に飽き足らず羽まで生やそうと思う。もはやここまで来れば蛇の要素の方が少ないように思われるが、テセウスの船みたく誰にも答えは出しかねる。テセウスといえば、ギリシア神話に出てくるアテナイの王だが、私としては連想されるのはラビリンスの方である。ちなみに英語の発音はlˈæbərìnθで内耳とか言う意味もある。3へぇ。話がずれた。ちなみにズレる本筋もまだない。何からズレたのかはよく分からないが、ともかくズレた気がするので元に戻そうと思う。足も手も羽も生えた蛇が果たして蛇といえるのかについては、蛇のような化け物と見るか、化け物の様な蛇と見るかで大凡別れるところだと思う。有り触れた在り来たりの陳腐で聞き古した意見で恐縮だが、この問題も人の世界の分節の仕方によるものに帰着させうる。すなわち人間は世界を丸ごとそのまま理解するに能うほど賢くはなかったため、世界を四捨五入して区切って分けた、その境界線自体が言語そのものであろうという意見である。そうすると、足と手と羽がある蛇(わざわざいちいち言うのは大変なのでここではイダニマの名付ける)が人間の言語分節では区切られていないために、既知の言葉によって言い換えているのである。言い換えると、イダニマはイダニマ以外の何者でもなく、ただのイダニマであるが、イダニマではなんの説明も果たせぬので、しょうがないから手と脚と羽がある蛇(のようなもの)とみんなが知ってる言葉で代用するのだ。だから、日本語は区切り方あでイタリア語は区切り方Aで英語は区切り方ਪと言った、そんな感覚だ。

 

4蛇角

昔、UFOを見たことがある。小学2年生の頃だったか、ある晩のことである。当時は5回建の団地の最上階に住んでいて、ふと夜中に目が覚めるの窓の前に燦燦煌煌と輝く小さな物体が浮かんでいた。近くに水辺は無かったからホタルでは無いと思う。その謎の物体Aは文字通りあっという間に遠くに行ってしまった。果たして見間違えかどうか今となっては確かめようもないのが心残りだが、さておき、宇宙人と言えば地球外生命体だが、私的にはむしろ宇宙外生命体の方が確率が高そうかなというのが最近の持論である。宇宙外生命体という言葉が存在しないのは地球外という言葉でhodgepodgeにしているのか、先の言語論的境界の問題か、宇宙は確実に存在する(と思い込んでいる)が宇宙外は存在するか不確実だからというのが一番有りそうか。

仮に言語的問題と言っても、宇宙外生命体が存在しないのは言語的問題だと言うのも不適切であり、むしろ人の認識的問題であるようにも思える。こちらも多分に漏れず、陳腐で月並みの認識論だが、その区分での分節の仕方がないためにというよりむしろ、人が宇宙外を想像し得ないために宇宙外生命体という言葉が存在しないのではないか。しかしこれでもまだ誤謬がある。人間は適切な言語がなければ適切に想像し難いし、想像し難いから言語によって区切らなくてよかったと言うのがなるべく真に近いかなとは思う。だけれども、言語自体が区切り方であるために、言語によって言語を分節するのは非常に難しいというのも本音である。先にも述べた新たな時代、新たな事が多種多様に取り入れられる時代で有り、想像の埒外に在るものに出会す時代においてそのものをどれほど理解できるかは、どれだけ世界の区切り方を知っているかに依る他ない。

 

5蛇鰭

その昔。ぼくはドクターGに憧れて、医者を、こと総合診断医を目指していた。だが、忘れもしない高一のある日。電車に乗っているとある1人の老人がうっと苦しんで倒れた。ざわめく車内。妻がしゃがんで心配そうに付き添っている。周りの人は駅員や救急車を呼ぶ。そして僕は。何もできなかった。怖かったのだ。恐ろしく怖かったのだ。けれどどこか冷静で、彼の何が悪いのか。どうすればいいのか、勉強していたから頭に思いつく。なのに行動できなかった。怖くなってその場を黙って立ち去った。その晩。僕は泣きながら僕に医者は到底無理な事を悟った。

それでも諦めきれなかった。人が悲しむのは見たくないのだ。

所で、僕にとって医者とはサッカーで言うと、ゴールに入ったボール(複雑にネットに絡まることもある)を取り出す人が医者だと思っている。だけど、だからこそ、僕はゴールキーパーになりたいと思う。なるほど、いかに迅速かつ適切かつ楽に病気を治すかは素晴らしく高尚な研究対象であろう。しかし、同時にこうも思う。「いや、罹る前に治せばいいんじゃね?」だから誤解を恐れずに言うと、僕の将来の夢の一つは医者全員の仕事を奪いさる事ということになる。最近、一つ感心するものがあった。ただの醤油皿であったが、その普通の醤油皿は普通では無かったのである。醤油皿の底面には薄く動物の絵が彫ってあり、少しだけ醤油を入れた時だけ絵が浮かんで現れるという品物だ。勘のいい方ならもう察しているだろうが、少量の醤油でのみ現れる絵によって塩分過多を抑えようというのだ。なかなか素晴らしい物だなと素直に感心した。他にも色々な例はあるだろうが、これを医療の一つとしてみると(実際、予防医学である)、共通して言えるのは、もはや医学というのは医学の範囲を超えて行われるものではないのか。この観点から行くと、僕の夢を成就させるにあたって、やらねばならぬ改革がある。制度の改革である。具体的に言うと、今の保険制度を変えねばならぬと思っている。

現在の日本の保健制度は40年前に作られたものであり、もはや時代遅れになっていることは冷静に考えれば分かるはずなのに、どの政治家も根本的に変えようとしない。利権の問題か。さておき、たとえば矯正を例に取ってみよう。矯正というと、見た目を良くするという印象が強いかもしれないが、歯並びが良いと虫歯やその他の口の病気になりにくいという研究結果が実際にある。矯正を保険適用にして減る虫歯の治療費やら被せ物等の費用は計算せねばならぬだろうが。果たして虫歯になって痛い思いをする人が減るということはどれほどの価値があるものか。歯の事を一つ例に取ってみたが、予防できるものはまだ沢山ある。少なくとも予防医学という分野に、もっとお金と時間と人を割いてもいいのではないのか。

 

6蛇脳

最近、よくVRという言葉を聞くようになった。VRchatしかりメタバースしかり。ようやく、小学生の頃の私の妄想が現実になってきたかと感慨深さもあるが、閑話休題、本題は如何に新しい社会を作り上げるかであると思う。VRの優れている点は思うに、完全に閉鎖空間である事だと思う。すなわち、一切の外部干渉を受けず自分の世界を作れる。いわば神として降臨できる。そこまでいかなくとも、やはりTwitterよろしく自分と馬が合う人間とだけ集めれるのは否定し難い事実であろう。この時に私が注目するのは、境界である。なんのと言うと、コミュニティの境界である。仮想現実で過ごす場合は、現実世界と異なり、何の国境も人種差を性差も成りたい自分を作れるが為に存在し得ない。此れによってこの空間がかなり居心地が良い事は、新しく慣れないものという性質に目を瞑れば、容易に想像できる。そうすると、先に述べた閉鎖性も相まって「異世界」が幾つも出没するだろう。そうして自分好みの世界に暮らす……。ルソーは混乱した社会を解消する為に社会契約論を書いた。確かにこれは現代社会の根本を形作っていると言っても過言ではないだろうが、いかにルソーと言ってもまさか世界が幾つも出てくるとは思ってこなかったのか、対応してない。由々しき自体である。これは(人が集まれば諍いが起きる事を前提にすれば)、新たな世界の出現で個人間で解決できないレベルの争いに対して、明確なルールが存在しない事を意味するからだ。ただでさえ、Twitterの誹謗中傷問題など法整備の遅れが指摘されているにも関わらず、さらに高次の異世界での争いとなると果たして歯止めが効くのかも怪しい。この社会契約論でも対応しきれなかった世界の出現に対して、早急に新たな社会契約論を結ばなければ現代社会はたちまち混乱の渦に巻き込まれるだろう。そう妄想している。

 

7蛇考

これまで滔々と私の妄想を垂れ流してきたが(読んでくれてありがとう)、ここでは哲学についての妄想を軽く想像しようと思う。締め切りが近い為だ。

これまで、人類史に争いは付き物であった。それは思想に先んじて技術がよく発達して来たからに思える。例えば、ナチスが毒ガスやその他技術を残虐行為に用いた様に。あたかも、赤ちゃんが銃を手にしたかの様な残虐性は如何に生まれたのか。其れを考えなければなるまい。その答えの一つとして、私は哲学の未熟を挙げたい。つまり、哲学はまだありもしない技術を先読みし、その思索を尽くしてなければならないと主張したい。そんな無茶なと思われるかもしれない、確かに、まだ存在もしないものを想像して思索をする事は一般に妄想と言う。だが、温故知新、哲学の未熟、考え不足によって人倫に悖る行為が生まれているのだとしたら、哲学の一つの仕事はまさにその妄想であると言わざるを得ないだろう。真理とは、果たして現実性を論理的に追うだけで到達できるのか。非現実性の真理無くして、真の理と言えるものなのか。であれば、やはり妄想も立派な仕事の一つでないのか。ともかく、これを考えるにも何のために考えるのか、其れを明確にすること、これが最上に大事な事である。そう言った意味で、最後に一言だけ言おう

「考え方に潤いを」