2016年、両親の死 〜父の命日〜 | らな☆いろ Rana Rainbow

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はじめまして♡Ranaです
地球人不適合者?!地球で生きづらさを感じ、思春期からパニック症がいを発症。今も付き合いながら主婦として生活してる中、自分の使命とは何か?やるべきことはなにか?スピリチュアルを通して気づきから能力開花の過程を発信するブログです。

こんばんはウインク


今日 

11月19日は 私の父の命日です虹


おととしの2016年

6月に母を亡くし、

その年の11月に父まで亡くなりましたえーん

まさに


青天の霹靂!!ガーン




当時、息子は中3で受験生でしたショボーン


旦那の両親はおらず


息子にとって私の両親が


じいじとばあばでした




母は亡くなる1年半前に

卵巣癌が発覚しました


足のむくみやお腹の調子が悪いと

何年も病院に通い

あちこち検査しても原因がわからず

何件も病院をまわっていました


近所の女医さんの診療所にかかったとき

あまりの足のむくみに驚き

これは只事ではないと

その女医さんが即入院の紹介状を

書いてくださり

総合病院に入院しましたが

検査検査の日々


それでもしばらく病名がわからず

入院して数週間後に

卵巣癌と判明



どれだけ判明するまで時間がかかったかゲッソリ


判明したときは 卵巣全体に

がん細胞が散らばっていて

手術は困難とのことでした


母は毎年欠かさず

子宮がん検診をしていたのに

卵巣癌になっていったなんてぐすん



あとで聞いたことですが

すい臓がんと卵巣癌は自覚症状がないため

発見が遅れ

見つかった時には手遅れになってるケースが

多いそうですもやもや



でも!


母は抗ガン剤が効くタイプだったのか

しかも抗ガン剤の吐き気などの副作用もなく
髪は抜けましたが


2か月に一度のペースで抗ガン剤の入院を

1週間ほどするだけで

あとは自宅で普通に生活してました

抗ガン剤で真っ黒だった卵巣は

少しきれいになって

でもまた日にちが経つと増えての

一進一退でした

しかし 抗ガン剤を打つと

食欲回復、元気回復、副作用なしという

あの抗ガン剤に負けず
 
ある意味すごい生命力でしたよガーン



1年くらいはそんな生活でしたが

だんだんと抗ガン剤が効かなくなり

体調も悪くなってきました


違う抗ガン剤に変えて

少し良くなっても

ガン自体は減らず…ショボーン


とにかく現状維持でいいからこのままで!

と思ってました



年を越して

食欲がなくなり 下痢と嘔吐を繰り返し

みるみるうちに衰弱し

生活に支障が出て、春に入院


抗ガン剤をする体力も無くなっていたので

医師からは もう治療法がないこと、

この先は緩和ケアの病院に行くか

自宅で介護かの選択になりました


立つことも歩くことも

出来なくなっていたのに

迷わずに お母さんを家に帰してあげたいと

介護申請をして、介護ベッドや

介護に必要なものをあっという間に揃えた

父の行動力には 

今思うとすごい愛だなぁと思いますラブラブ



5月に母が家に戻ってから

家族総出の介護生活がはじまりました


私は実家から車で5分ほどのところに

住んでいたのと

母のガン発覚の半年前に

一人暮らしをしていた弟がたまたま

実家に帰ってきていたので

今思うとこの弟の帰省もすごいタイミングだった!

父と弟と私の3人と

たまに旦那と息子がお手伝いという布陣で

ベッドから動けない母の全ての世話を

ヘルパーさんのお力も借りながら

毎日行いました



6月になり 


食事の量が減り、

毎日生きるのに精一杯になりました

その頃のことはまだドキドキして

書こうと思っても 記憶が蘇り

詳細は書けませんでしたショボーンすいませんえーん



その後 安らかに亡くなりました



介護生活が始まる前から

腰痛や体の痛みや咳など父も

体調が万全ではありませんでしたが

気丈に母を送り出し

8月、四十九日が過ぎたころ

父がみるみるうちに痩せ細っていきました


母を見送り 精神的にキツイのかと

思っていたのですが

全く食べれない、体の痛みがひどい

ということから

四十九日が終わってすぐに

病院に行きました

そしてその日に即入院となり

それから父が家に帰ってくる日は

ありませんでした






父もまた




肺がんの末期だったのです












何年も体の痛みがあって

腰は何度も手術して それでもなおらず

次は足も痛い、痛い

次は背中が痛い、痛いと。

原因がわからず都内の大学病院の

整形外科にも通い

いろんな治療をしてきましたが

それは


ガンの転移によるものだとあとで

わかりました


父のガンは主に肺がんでしたが

筋肉や骨やリンパにも転移していたのですガーン


その痛みたるや…ガーンガーンガーン


その痛みがあるにもかかわらず

母の病院、入院、介護、お葬式と

突っ走ってきたのです



そして母が亡くなって

やることがなくなったら

自分の体の痛みや不調に耐えきれず

やっと事の重大さに気付いた時には

余命いくばくもなく…



それでも母の抗ガン剤がテキメンしていたのを

一番目の当たりにしてきている父は

希望を捨てず

医師からの

「抗ガン剤が効けば通院治療も出来ますから」

の言葉に更に生きる希望を持ち

抗ガン剤をはじめました




しかし





母のようにいかず







たった一回の抗ガン剤で



立てなくなり



歩けなくなり



食べれなくなり



体力全てを奪われました





私と弟はどうしたらいいのかと

本人や医師を交えて

何度も話し合いをしました


本人はそれでも2回目の抗ガン剤をしたいと



医師は 抗ガン剤をする体力がないことや

もし抗ガン剤をするにしても

1回目の量より少なくしないとダメと言いました

またそのころ肺ガンの新薬が出た時でしたが

治験データとして 父の年齢層のデータが

少ないこと、父の年齢層だと

あまり効果がないからオススメはできないことも

言ってました



だけど父は 他に効く抗ガン剤を求め

とにかく生きたい、生きたい!!

そのために苦しい抗ガン剤治療をがんばる!

と言うのです

私は反対でした!!

これ以上体力がなくなったら元も子もないショック

父や弟にもセカンドオピニオンを受けようと

言いましたが、
 
担当医師はセカンドオピニオンに行っても

同じ答えだと思いますと言ったのですイラッ


もともとめんどくさがりの父は

その言葉でセカンドオピニオンをやめ

弟も本人がやりたいって言ってるんだからと

抗ガン剤治療を望み、結果

少ない量で違う抗ガン剤を投与する

ということにえーん




結果



1回目も2回目も抗ガン剤は全く効かず

2回目の後は

ろれつも回らなくなり 何を話してるのか

わからず意思の疎通が出来なくなり

筆談がかかせなくなり

筆談するにも力が入らないため

書いてる時が読めず

キレられたり 怒鳴ったりガーン

痰の吸引が1時間に何度も必要なくらいになり

夜は恐怖で眠れず

私は病室に泊まり続け

緩和ケアの病院に弟が何度か面談して

滅多にあきの出ないところ

一室タイミングよく空いて

転院することに

11月18日に転院し検査を色々受け

その時の医師の説明で

どの検査結果もおもわしくなく

そんなにもたないので

好きなことをさせてあげてくださいとのことでした


父はお酒が大好きで

一番の望みは日本酒を飲みたいこと

そして実家で飼っていた柴犬の小次郎と

会いたいということでした


その緩和ケアは個室で庭もあり
犬も入室オッケーだったので
明日連れてくるねという事にしてその日は
夜遅くまでいて帰りました



翌日19日、弟が日本酒を持ってきて
ほんの少しだけ飲めたそうです


弟も疲れていたのと夜に予定があるから
小次郎は明日にお預けとなりました


弟と交代で夜に旦那と病院に行って
少し話したらなんかおかしい…


すぐに看護士を呼び確認したら
呼吸が浅く呼びかけにも反応しないので
すぐに親族の方お集まりくださいとのことでした


弟は都内に出かけていたのですぐに電話をし
危篤なことを伝えました


電話をスピーカーにして
弟の声を父に聴かせました

弟が
お父さん、お父さん!と電話の向こうで
呼んだら 父は一瞬反応し頷き


そのあと息を引き取りました



息子は家で留守番していたので

すぐに私が息子を迎えに行きました



その道中のことはあまり覚えてません



息子は家で泣いていました


深夜のいきなりの訃報

家でひとりきりで私がくるまで

どれだけ悲しくて辛かったか




その後怒涛の日々を過ごします




これが2年前の今日のことです








その後 2017年の3月



息子が高校受験を終え、中学の卒業式を
迎えた時、私がフェイスブックに載せた
記事を貼ります




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10日は息子の中学の卒業式。
この1年色んな事がめまぐるしくあって激動の1年でした。
卵巣癌を患ってた母が、最期の1ヶ月家に帰って来て家族総出の介護経験。孫の誕生日まであと1週間なのに、もう1週間も持たないと悟った母から早めの誕生日のお祝いを息子に残してその2日後に眠るように亡くなりました。

息子は期末テスト真っ最中で、ショックとテストで本当に大変だったと思うけど、頑張ってくれました。

母の49日法要を控えた夏の事。
父の体調がおかしい。母を亡くしたショックからかと思ったけどみるみる痩せるし食べれないし昔からある体の痛みがひどくなる一方。
49日が終わって即病院へ。
まさかの、本当まさかの、肺がん、、、ステージ4。
筋肉やリンパ、骨に転移あり、、、
抗ガン剤二回やった時点で、良くなるどころか、歩けなくなり食べれなくなり呂律も回らなくなり声も出なくなり、、、発覚して3ヶ月の11月に母の元へと旅立ちました。

1年の間に両親を2人亡くすなんて。

でも時は止まらない。
中三の息子は受験生。
心のバランスを崩して体調不良も続いた年末年始。
それでも全く内申が足りない志望校。
焦りとプレッシャーが相当あったはず。
親子で散々葛藤やストレスもあったし、年明けにインフルにもなってどうなるかとおもったけど、
最後の1ヶ月のラストスパート、あんなに勉強嫌いな子がよくここまで!と思うほどのパワーで、駆け抜けてくれました。

結果は模試でも過去問でも出したことのない
点数を入試で叩き出し、合格する事が出来ました🌸
おととい塾の先生から聞いたのですが、彼の点数は、
受けた高校の中ではほぼ最上位だそうで驚きっす!
判定がDでも合格出来るんですね(⌒-⌒; )
それは本人の努力が実を結んだのでしょう‼️

受験モードが終わったら遊びモード全開‼️😭
でも、ジュニアユースのサッカー復帰⚽️
再来週の卒団式も泣いちゃう(^_^;)

お父さん〜、お母さん〜!
孫は無事に高校生になりますよ〜(^○^)
あさって、中学を卒業します🌸
高校生になった姿、見せてあげたかったよ〜。
でも天国で見てるもんね‼️
卒業式の晴れ姿も天国から見守ってやってくださいな(^ ^)


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えーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーん



当時のことが蘇ってまた泣けたえーんえーんえーんえーんえーん








そんな息子も今は高校2年生





きっと天国でお茶でも飲みながら

あ、とーちゃんは日本酒だなニヒヒ


孫ー成長してー照れ

大人になったなぁーニコニコニコニコ

って見てくれてるよねラブ




小次郎もとーちゃん亡くなって

1年後の昨年の12月に天国に旅立ち


先代の愛犬 
ゴールデンレトリバーの飛雄馬とともに

仲良く過ごしてることでしょうおねがい



私がそこに仲間入りするのは

まだまだだけど


そっちに行ったら

色々教えてくださいよ(笑)口笛