前ブログ、「へたれコギ」のブログで、先代犬が"脳腫瘍"とわかり、このままだと余命は2〜3日と言われた時に、娘が職場の上司に話したところ、安楽死のことを苦もなく語ることに悩んでいたことを書きました。

私自身、その"安楽死"という言葉自体にも抵抗があり、せめて"尊厳死"という言葉にこだわって小さな抵抗をしていたことを思い出しました。


緊急手術では取りきれなかった腫瘍。
病理結果では最悪の癌だとわかり、予後は希望のあるものではありませんでしたが、我が家はその後9回の抗がん剤治療を愛犬に課すことになりました。

その間には辛い治療で愛犬を苦しませることもありました。
それは私たち家族、いえ私自身のエゴではないかと何度も考えました。

病状や体調はジェットコースターのように良い時も悪い時もありましたが、奇跡的に腫瘍がかなり小さくなり、寛解では?と思わせてくれた時期もありました。

口を聞けない犬に意思を確認できればいいのですが、それができない以上、家族が判断せざるを得ません。

リブログさせていただいた方の文中に、愛犬が亡くなってから近所の方に"あの時、安楽死させてあげればいいのにと思っていたよ"と言われた言葉に傷ついたとあります。

もっともです。

娘も当時、同じ気持ちであったのだろうと思います。

治療を続けることで愛犬を苦しめることになるのか。

途中で緩和治療に切り替えたり、一切の治療をせず穏やかに死を迎えさせるのか。
そして問題の"尊厳死"を選択するかは他人が決めることではないと思っています。

そこまでの選択に至ったプロセスで苦しみ、悩まない家族はないはずです。
そこに至った経緯をただ見守ることが、第三者にできることだと思うのです。

当然、たとえ"尊厳死"を選択されたとしても、他人が批判をすることがあってはならないと考えます。

家族として共に生きた年月。
喜怒哀楽を共に生きて、正に家族同然に色んな節目を経験して来た彼らに、出来ることをしてあげたいと思うのはどなたも一緒だと思います。

それが"尊厳死"という形であってもそのご家族の尊い結論です。

できる限りの医療を施してあげたいと思うことも当然です。

その価値観はご家族の数だけあるはずです。

ペットロスと一括りに語れないほど、"家族"との別れに打ちひしがれている相手に、その近隣の方の言葉は、言葉の暴力ではないかな。

この方のブログを拝見して、ルイが旅立って4年が経ちますが、ふとあの頃の苦い思いが蘇りました。