明日は恵比寿へ
こんばんわ😃🌸
昨日はRAM HOMEvol'6 札幌
来ていただいた皆様ありがとうございました🍀😊
やっぱり故郷でのライブ~
沢山のおかえりをもらえて嬉しかったです😊🌸
札幌ならではの
ホーム感
安堵感
とても素敵な時間をありがとうございました😊✨
さて、明日は
RAM HOMEvol'6ファイナル!
恵比寿ガーデンルーム(東京都)
2014.12.07(日)
開場/開演
17:00 / 18:00
料金(税込)
All Standing ¥3,900(tax in)ドリンク代別
当日券もまだありますっ
行こうかなって思ってくれたら直接会場にきちゃってください🌸😊
みんなに逢えるの楽しみにしてます✨✨✨✨✨😆😆😆😆😆😆💕
お待ちしています😊🌸
明後日です!RAM HOMEvol.6
みなさま
いよいよ明後日でございます!
RAM HOMEvol.6
まず、5日は札幌!!🌸😊
札幌cube garden(北海道)
2014.12.05(金)
開場/開演
18:30 / 19:00
料金(税込)
All Standing ¥3,900(tax in)ドリンク代別
そして、また一日あけたら
東京 恵比寿!!
恵比寿ガーデンルーム(東京都)
2014.12.07(日)
開場/開演
17:00 / 18:00
料金(税込)
All Standing ¥3,900(tax in)ドリンク代別
両日とも当日券もまだあります🌸
迷ってる方も直接来てね✨✨✨
今年の締めに皆で素敵な時間を過ごしたいですー!
おまちしてますっ😆🌸
興奮して
大阪 RAMHOMEありがとうございました
RAM HOME vol.6 in 大阪
来てくださったみなさま、本当にありがとうございました!!😊🌸🌸🌸🌸
はじめて来てくださったみなさまも
いつも来てくれるみなさまも
暖かい眼差しで迎えてくれて、
本当にいつもに増してHOME感溢れる
会場でした。
笑顔が近い😊🌸
数日前にあげた私のブログに対して、心配して下さってた方々もたくさんいらしてくれてたと思うのですが(沢山の暖かいコメントも本当にありがとうございました)、実際みんなの笑顔を見て、歌わせてもらって、全てを失ったわけじゃなく、私にはまだこんなに素敵な場所があるんだなぁと
生かされているなぁと
改めて感じました。
皆と笑顔になって、大丈夫僕らをうたいながら、心から笑顔になれてる自分に気付きました。
あの場で、心配してくださってる想いに感謝を口にしたいとも考えましたが、口にして笑顔になるにはまだどうしても無理することになる自分がいたので、みんなの察してくれる想いに甘えさせて頂きました。
本当にありがとう。
名もない毎日を歌いながら、やっぱり面影を思い出してしまったけれど、
あの経験を経て
またひとつ言葉の重みを噛み締めながら歌わせてもらいました。
みんなのかお、一人ずつ見てたかった。
力をありがとう。
みんなにも同じものを渡せてたら嬉しいです。
あらためて、
来てくださったみなさま、
イベント関係者全てのみなさま、
本当にありがとうございました😢✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨
札幌12/5、東京も12/7
待っててくださいね!!😊🌸🌸🌸🌸🌸
覚書
先日、11/1 母が亡くなりました。
去年6月、肺癌の末期と告げられてから1年と4ヶ月、ずっと闘ってきました。
制作をしなくちゃいけないのに、なんだか前向きな感情がうまく出てこないので、今、頭を埋め尽くす母の色々を出し切り、母が闘った日々をここに覚書として、記したいと思います。
長いですが、ご容赦ください。
思えば去年の春、検査を受ける2.3ヶ月前から咳が止まらないと言ってた。
ただ、風邪をこじらせたんだと母は笑ってた。
あまりにも止まらない咳に、検査を受けたのが6月。
癌の末期だなんて、母にしたらそれはそれは、辛かったことだろうと思う…
怖かったと思う。
肺の癌はもう大きすぎて手術はできないこと。悪性胸水が溜まり、脳にまで転移があるステージ4ということ。
普段、看護師として勤めている姉はそれを本当に冷静に、期待させるような言葉は1mmも使わず私に伝えた。私は姉と2人で嗚咽を漏らしながら、こんな日がついに来てしまったと思った。
ただ驚いたことに告知の当日、病院から自宅に帰ってきた母を姉が写した写真には
笑顔の母がうつっていた。花が咲く庭先で何事もなかったかのように笑ってた。
強い人だと思った。
たったいま、末期ガンの告知を受けたばかりなのに、なんなんだろうと思った。
本当は怖くてしょうがないのに、姉にそれを見せたくなかったとは思うけど…
この強さは私にはまだはかりきれない。
それからの彼女は更にすごかった。
絶対負けないと言い放ち、癌に効くというありとあらゆるものを調べあげ、その中で信じるものを必死で遂行していった。
信じたものは、
食事療法と玄米酵素、温熱療法だった。
肉、魚、乳製品は一切取らず、玄米と野菜中心の生活。それもほんの僅かな量。
それをイレッサという抗がん剤を併用しながら。
話を聞いて駆けつけてくれた知人の方々が泣きじゃくる中、それを困ったように笑いながら慰める母を何度も見た。
私は私で抗がん作用のあるものを必死に調べた。絶対に死なせたくなかった。怪しい健康食品でも高価なものでも『末期ガンから生還した』みたいな嘘みたいなチラシにも飛びついた。それまでは弱みに漬け込んで、と穿ってみていたそういうもの全てに心から感謝した。お医者さんも手をあげたのに、あんな奇跡みたいな事を書いてくれて本当に有難かった。嘘でもなんでもどんなちっちゃな希望でもしがみつきたかった。
そして本当に有難い事に、4月から札幌でFMの番組をやらせてもらえるようになっていた私は、今までよりもずっと実家に帰る機会をもらえていた。
呼吸はちょっと苦しそうな日もあれば、咳が続く時もあったけれど、そんな中でも穏やかに過ごせる日もあり、初めのあんな絶望感は薄れ、もしかしたら大丈夫なんじゃないかと錯覚するくらい、笑いあえる日もあった。
何度目かの検査を経たある日 、脳の腫瘍の影が無くなっていると告げられた。
抗がん剤が効いたんだと姉は言った。
電話ごしで母と心から喜びあった。
もう本当に本当にこのまま治ってしまうんじゃないかと思った。
食事療法も良かったのではないか?
玄米酵素のせいなのではないか?
わからないけど、ただ嬉しかった。
嬉しくて、光が見えた気がして躍起になる私に、看護師の姉は『あんたを見てたら心配になる。希望、希望、と言ってお母さんを奮起させるけど、それが逆に無理させていることもある。覚悟が出来ていないようにしか見えない』とも言われた。
わかるし、正しい。
けど…
私には、それしかできなかった。
そして
『いずれイレッサは効かなくなる』
姉が言ったこの言葉は聞かなかったフリをしていた。
そうしてる間に
母はみるみる痩せていった。昔は丸くて、おそらく50kg台後半の時もあったであろうコロコロしてた母が気付けば30kg台にまで体重は落ちてたと思う。
ストイックな食事療法のせいはもちろんあるけれど、本当にそれだけのせいなのか、素人の私には何もわからなくて、なんだかあんまり考えるのが怖くて『痩せてよかったねー。足細いね、羨ましいわ』なんて褒めて笑ったりしていた。痛々しい程に痩せた足が悲しかった。
千葉に帰ってきている時はSkypeをしたり、電話をしたり、やりとりの中にはいつも『体調はどう?咳はでる?野菜取れてる?眠れてる?またすぐ帰るよ』こんな言葉が増えた。
思えば母が病気にならなければ、こんな会話をしたことさえなかった…その度、気付かされた。20代なんて、1年に1度、実家に帰ればいい方だった。
本当に親不孝だったなぁと、この期間、私はずっと思い知らされる。
そしてまた何度めかの検査を経て、脳に再び腫瘍の影。
姉の言葉通り、イレッサは効かなくなっていた。母とはもうお互い病状を口にすることはやめていた。病状は全て姉から聞いていた。
今年の夏くらいに、1度、真夜中に母から電話がかかってきたことがあった。
そんな事は普段全然無くて、21:00くらいには就寝する母から、夜中1:00くらいにコールがなった。『どうしたの?』って驚いて聞くと『優子ちゃん元気にしてるかなぁと思って…』と明るい声で話をしてきた。
それがずっと忘れられない。
きっと怖くてしょうがなかったんだと思う。
そんなのすぐにわかったのに、同じトーンで『元気だよーそんなの、』と返すしかできなかった。
もっと気の利いた事を言ってあげればよかったと、繰り返し思う。
1人眠れない夜がどれだけあったんだろうか。布団の中で何を考えてたんだろう。
どれだけ怖かったんだろう。
弱味を決して見せない母はこの時期までも
まだそれを貫いていた。
JOIN ALIVE
今思えば母が見てくれた最後のライブだった。今、気付いた。そうだね…本当は岩見沢のRAM HOMEも見て欲しかったけれど、その直前に母は脳梗塞になってしまった。
たまたまその晩、ラジオの収録で札幌に居た私は夜中にその知らせを聞き、次の日すぐに地元の病院へ向かう事ができた。
病室に入ると、『優子ちゃーん。』と泣きそうな声を出しながらそれでも少し嬉しそうな顔を見せてくれた。右目が見えないと言う。『優子ちゃんの顔が半分しか見えないの。』と不安げに話す。ただ脳梗塞は失語症も伴ったりするのを聞いていたため、思ったよりきちんと話せる事に少しほっとした。
横になる時、母は羊のぬいぐるみを抱えていた。抱き枕があると肺が開いて、少し呼吸がしやすいらしい。
片肺はもうほぼ、潰れていることを姉から聞いた。痩せて枝みたいな腕にぬいぐるみを抱えて、なんだか少女みたいだった。
昨晩からあまり寝てなかった私は、看護師さんの目を盗みながら、母のベッドのわずかにあいたスペースで一緒に横になり少し眠った。すごく心地よかったのを覚えている。母の横で眠るなんて小学生以来だった。
そして目が覚めるとわけもなく『大丈夫だよ。』と言い続けた。手も躊躇なく握るようになった。
恥ずかしさより、そうしたくなった。
母だけにこんなにかぶさる苦難に、家族みんなの心が少しずつ折れかかってるのを感じた。脳腫瘍が血を凝固しやすい状況を作ってしまうらしい。だからまた、繰り返し脳梗塞になる可能性があると聞いていた。
そしてそれは退院して二週間も経たぬ間に、すぐ現実になった。
10/20
この知らせを聞いた時はもう、よく覚えていない。頭がよく機能しなかった。
夜中に母の言葉が覚束なくなり、父が姉とコンタクトを取り相談。救急車を呼んだとのこと。
翌日病室に入ると、『優子ちゃん~。』と母は眉をへの字にした。
私の名前を口にしてはくれたけど、でもよくよく姉との会話を聞いていたら、チグハグで会話になっていない、おぼつかない様子。
今度は失語症の症状がはっきりと出ていた。姉から『優子の事はわかったけど、まだ頭はボヤッとしてるから、会話がおぼつかなくても合わせてあげて』と言われた。
言葉とも取れぬ単語を必死で伝えようとする母…リハビリの先生が『ご自分の名前を教えてください。』と言うと母はおぼつかないイントネーションで自分の旧姓のフルネームを告げた。母は本当に少女に戻っているようだった。
ナースコールのボタンを押すことも、トイレに行きたい時に『トイレに行きたい』と告げる事も出来なくなっていた。そして何より前回会った時より、呼吸がずっとずっと苦しそうだった。肩で息をしている。
寝てるかと思えば急に起き、身体に繋がれている、点滴や心電図、血圧、酸素の管を無理矢理剥がそうとする。懇願するような目で『光珠内に帰らなきゃ』と言う。光珠内とは、母の実家があるところ。『駄目だよ、今は病院にいなきゃ。』と言っても『早く、早く、今。』とせがむ。それは、トイレの事だった。もう、言いたい事と言葉がまるで直結しないのだ。
覚悟はしていたものの、大分ショックを隠しきれない自分がいた。
トイレに連れてゆき、部屋に母を戻したあと、私はトイレに戻って泣いた。
もう限界だった。
こんなのはもう限界だった。
病室では泣けないから。きっと父も姉も伯母も妹もそれぞれの泣き場所で泣いてたんだと思う。
そしてそれからすぐに、医師から告げられたのは、心臓にも水が溜まりはじめている、来週までもつかわからないということだった。
水を抜く事も出来るが、それは酷い痛みとリスクを伴うし、抜いたら三日は少し楽になるが(そのうち一日は絶対安静で全く動けない)、また三日後にはすぐ溜まってしまうというものだった。
その延命に意味があるのか…わからなかった。今となっては、物事もちゃんと理解出来ない母が『痛い』と嫌がる中、無理矢理押さえて心臓に針を刺すことが、たとえわずかな延命に繋がったとしても、良い選択なのか。少しでも生きていて欲しい私たちのエゴじゃないのか。もうわからなかった。看護師でもある姉は『水を抜かない』選択をしたいと相談をしてきたけれど、私たちもそれになんら反対する気持ちにはなれなかった。20年間、医療に携わってきた姉の経験、それもひっくるめ、きっと大切にしたのは1人の子として母を思う気持ち。それが痛いほどわかったから。
以下、
その時に姉からもらったメール
迷ったけど、刺さないほうを選びました。
お母さん、今日MRIの検査だけでも辛かった、嫌だったと泣きながら帰ってきて、ずっと嫌だ嫌だと怒っていたの。
お父さんも和美ちゃん(妹)も同意してくれた。
もし、これから呼吸や胸の苦しさが強くなった時には、鎮静をかける薬(意識を落として苦痛を感じなくする)を使ってもらい、症状を緩和してもらうことになっています。これを使うと眠る状態が続き会話はできなくなる。
今は落ち着いているけど、突然心停止することも可能性としてはあるそうです。
限られた時間の中で、苦痛を伴う生命の延長ではなく、1番苦痛が少なく、人間らしくいい時間を過ごせるよう、考えた結論です。
これで良かったかな。
優子ちゃん、良かったのかな…
そして姉の提案で最期の数日ならば、母を長年過ごしてきた自宅に帰そう、ということになった。
病院の方々にも力をお借りし、パラマウントベッドや酸素濃縮器、ベッドの近くに置く簡易トイレもリースし、何かあった時に駆けつけてくれる事を先生も引き受けてくださったうえで、10/31 母は一時外泊という名目で病院から自宅へ帰ってきた。
母が何かに感づくのを避けるためであり、もちろん外泊とは名ばかりだった。
お医者さんも、看護師さんも、リハビリの先生もみんな『林さーん、一時外泊よかったね。おうち帰れるね、楽しんできてね。』と言葉を合わせて声をかけていただきました。本当にありがとうございました。
自宅に帰ってきた母は、午後から体調が芳しくないようだった。
昨日にも増して、辛そうだった…。
眉間にずっと皺をよせて、一呼吸さえ大きく肩を揺らし息をする。
たまにベッドから起き上がると、上半身を自分で保てない様子。胸を掻きむしる。
心臓の水が増えてきてるのだろうか。本当に辛そう。
食事も全く取りたがらない。
二日前、イクラを口に入れてやったら喜んだと聞き、私はお寿司の出前をとった。
サーモンやイクラ、カニが好きな母に、好きなものだけを、ほんの指先くらいの量でも食べて欲しかった。
でも目の前に差し出しても首を横にふる。
それでも横になり眠りだすと、比較的呼吸も安定する様子。
酸素濃縮器の、シューッシューッと静かな音だけが響く。
これが今の母の命綱なんだなぁと思う。
最期が近いことを皆がわかっている。
私は伝えなきゃいけないことをずっと秘めたまま、いつ言えばいいのかわからないでいた。言ってしまう事で、本人が何かを読み取り、傷つけてしまうんじゃないかと思った。
『産んでくれてありがとう。お母さんの子でよかった。ずっと心配ばかりかけてごめんね。花嫁姿も孫も見せられなくてごめんね。大好き。愛してる。育ててくれてありがとう。』沢山あるけれど、傷つけるための言葉ではなんらない筈なのだけど、終わりを悟られるのが嫌でまだ言えなかった。ただ意識を落とす薬を使う前には絶対言おうと誓った。もっと普段から伝えるべき言葉ばかりだった。意識が朦朧としてから言うなんて、私は自分がなんなんだろうと思った。
夜21:00
母のベッドに付き添い、二人になるタイミングがあった。
母は上半身を起こし、隣に座る私にもたれた状態で手をつないでいた。明るくすると落ち着かないようなので、部屋は薄暗かった。今、言うしかないと思った。でも沢山の言葉からその時言えたのは、『お母さん、大好きだよ。』だった。『ありがとう。』はやっぱり最期を匂わすような気がしてまだ言えなかった。
『お母さん、大好きだよ。』と言ったら、母は少女のように『うれしー!』と言った。元気な声色で本当に嬉しそうに。
それが母との成立した会話としての最後のやりとりになった。これは、本当によかった。後悔はしていない。
深夜0:00過ぎ、母は突然苦しそうにもがき出した。黙って横にもなっていられず手足をバタつかせる。胸を掻きむしる。近くの棚を蹴り、苦しさゆえ力のはいる足で後ろに押し動かす。皆動揺し、必死に押さえる。『苦しいね、ごめんね。』と口々に叫びながら泣いた。
姉がもうこれ以上は苦しい状況と判断し、意識の鎮静をかけてもらうため、先生を呼んだ。
あんなに苦しがる人を見たのは人生で初めてだった。それが母だった。
先生が到着すれば、母の意識を落としてもらう。もう戻らなくなる。
苦しがる母をさすりながら、『お母さんありがとう。』と口を衝いて出た。叫びに近かった。そこからはもう雪崩のように叫び続けた。『愛してるよ。』親に愛してるなんて言う日が来ると思わなかった。でもそれ以外じゃ足りなかった。言えなかった言葉をずっと言い続けた。妹も姉も祖母も皆が口々に叫んでた。驚いたのは、父が母を抱きしめたこと。そして抱きしめた時、母はなんと照れたように一瞬笑った。笑ったというか、吹き出した。『プーッ』と口から息をもらし照れ笑いをした。その笑顔に泣きじゃくってた一同が少し笑った。信じられなかった。そうして最後の笑顔をみせてくれた。
先生が到着し、姉が母に『苦しくなくなる注射打ってもらおうね。少し眠くなるよ。』と説明をし、皆が手を握る中、意識は落とされた。
肩で息をしながらも、深い眠りにつくようだった。皆その周りで、後は静かに囁き続けた。『頑張ったね、 苦しかったね 、怖かったね…辛かったね、 偉いね、 尊敬するよ、勇者だねー、 すごいね、 見習って強く生きるからね 、愛してるよ、 大好きだよ』ずっと呪文みたいに小さく唱えてた。
やがて徐々に呼吸と呼吸の感覚が広がり、呼吸をする度大きく動いていた母の肩は最後、静かに止まった。
自宅に戻れたのは、結局、一日だけになってしまったけれど、母は長年住み慣れた自宅で皆が見守る中、最期を迎えられて、私は本当によかったと思う。この選択をしてくれた姉に、私は心から感謝しています。ありがとう、恵子ちゃん。お母さんもきっとそう思ってるに違いないよ。
あなたは亡骸にすがり『ごめんね、ごめんね』しか言わず泣くものだから、皆とても心配になります。選択を何処かで誤ったのでは、もっと出来る事があったのではと、1人で責任を感じ、泣くのはやめてください。良かったよ。今なら言えます。
恵子ちゃん、良かったんだよ。
ずっと付きっ切りで母を看てくれて、あらゆる手続きも、保険周りも、治療方針も先生からもらう選択肢、辛い選択を全てあなたにさせてしまっていたね。看護師の姉というあなたに只々甘えっきりでした。ごめんね。本当ならこんな文面は、側でずっと苦しい状況を見つめてきた恵子ちゃんには、どこを取っても足りない事だらけだと思う。私は全貌を全然わかってないのだと思う。あなたしか知らない事、苦しかった事が沢山あること、わかっています。そんなあなたの選択が間違ってるはずがないよ。
お母さん、
あの光景を、あなたが苦しんでもがいた光景を私は死ぬまで忘れない。
あなたは生き抜こうとするその強い意思を最後まで体言してくれた、最後の最後まで私には涙を見せなかった。
本当に強い人だね。
あなたが私のお母さんであることが誇りです。
愛してる。大好き。
最後に。
生前、
母のお見舞いに来てくださった方々、
母の為に泣いてくださった方々、
私達家族に励ましの言葉をくださった方々、より良い方に計らってくださったそれぞれの職場の皆様、
母の死を痛んでくださった方々、
お通夜、葬儀にご参列してくださった方々、
家族一同含め心より感謝致します。
本当にありがとうございました。