どうすれば毎日に満たされない感情を抱かずに楽しい毎日を送れるだろうか?

日本全体社会に於いて多くは満たされているが故に満たされていない。美味しいものは安く食べられて面白いものはただで見ることもできて少しの金で1時の快楽にもありつけられる。故に何かを渇望するということはない。

しかし逆に多くの人は常に満たされないという思いを抱えて生きている。何かがない、故に何かを求めるというのは今やほとんどない。戦後の人々の夢への熱烈な願望と努力によりもう当たり前のこととなってしまった。家に風呂があってテレビがあって洗濯は自動。遠くの人と繋がれて。しかし昔の人が考えた多くは今や実現している。

多くの人は心のどこかで満たされていないながらも同時になんだか物足りないという葛藤に苦しんで生きている。何故だろうか。

今や目的が手段になって久しい 。出世、就活、受験。全てが手段であって目的ではない。しかしこれは個人の問題ではないのだ。人
は何かを成し遂げようとする過程でのみ努力することが出来る。モチベーションを保てる。今や熱烈するほどの物事への飢餓を覚える人は限りなく0に近い。そうすると結局目的もないためにただ漠然と手段を目的とするしかないのだ。人生振り返ってみれば何もしなかった。ただ食うために生きた。そういう時代は終わりをつげた。

しかし、逆にいうともう何かを成すということもまた難しいのだ。何かに対する飢餓が持てないということは即ち行き場のない不完全燃焼感を感じるのと同じだ。昔に果たして農民が働くモチベーションを出すための本が出ただろうか。毎日を生きるということは普通ではなかった。生きることはそれ自体が凄いことだったのだ。しかし今はもう普通だ。

だからこそ逆に行き場のない飢餓だけが残ってしまい飯にも困らずに人々は現状に満足してしまい、本当にやりたいことがやれているかどうかも分からないなか常に何か物足りない気持ちを抱えて生きていくしかない。例えば、目的がないのに手段を目的としている人。いい大学に入りたい、いい企業に入りたい、出世したい。これらは全て手段であって目的ではない。何かをしたいから大学に入って何かをしたいから企業に入って何かをもっと権利がないとできないと考えるから出世しようと思うのだ。しかしこれも仕方ない。何故なら日本はもう飢餓もなく何かを成さねばならぬほど飢えていないのだから。こういう人は飢餓がないのだからモチベーションが出るはずがない。何かをしたいから何かをやるのだ。やるべきことなんてなくて、あるのはやりたいことのはずだ。周りのものは全て何かをなしたいと考えた人が努力した結果によって生まれている。果たして彼らのその努力はモチベーションが必要だったのか、やるべきことだったのか。いや違う。彼らは成すというその1点に於いて必要だからやった。やりたいことをやった。彼らは手段のために進んだのではなく目的のために動いたのだ。人は人を殺すために訓練した時代もあった、しかしそれは目的ではなかった。国と国の戦争に勝つという目的。そのために人々は狂気を感じる毎日を進めたのだ。多くの人は今の自分の限界を決めてしまい、日々の暮らしに満足してしまっている。内心これでいいのかと思いながら。頑張れない人、モチベーションが上がらない人はやれるやれないを抜きにしていちど、自分の100%の人生を想定してみよう。その上で毎日を暮らすのだ。叶えられない叶えられるは抜きにして考えてみよう。どこに住んで、何をやりたいか、どんな毎日を送りたいか。そうでない限り一生満足しない目的もなく、または手段を目的とした生活を送ってしまう。100%の未来への努力はやるべきことではない、やりたいことだ。モチベーションが必要か?そんなはずはない。誰だって子供の頃は鬼ごっこだったりドッジボールを全力でやっていた。モチベーションは必要だったか?やりたいからやっていた。自分のありえないはずの100%を想像してそこに向かって頑張ろう。今の現状維持で成し遂げられるものはだめだ。今は無理だけどやりたいと思うことではなければいけない。人には誰だってできないと思っていてもやりたいことがあるはずだ。誰かの目的を自分の目的とするのではなく自分のやりたいことをみつけよう。すぐに見つかるとは思わない、しかし探すことが大事なのだ。そしてそこに進む。そうすることで毎日は必ず豊かになる。人生は長い。手段を目的とするかやりたいことを目的とするかで人生への満足感は大きく変わるだろう。