感じるまま、ちょっと?語ってみた。
個や創造性、瞑想に関連させて。
毎度の事ながら非常長々と^^;
結局、全て自分に語ってるのだけれどもね(苦笑)

まあよければお付き合いを♪




§*※*§※*※§*※*


ここ最近、何事に置いてもクリエイティビティーやクオリティ、センシビティーが落ちてきている。
またより均一化・画一化してきていて、真にオリジナルなものが出難くなって来てもいる。

いつの時代もそうと言えばそうだが、iphoneやFB全盛と言うのもあり便利であらゆるものと繋がり安くなってる反面、そこまで行かず個人まりとまとまってしまっていて多様性が失われて来ている。

人々の主体性や自発性、機敏さや審美眼などは便利さや多忙さの中にあって磨かれず、程好さの中に安寧するに留まってしまっている。

クリエイティビティーとは真に自分を請け負って生きようとする意志、そして物事や人に対して瞬間瞬間に開き切って変わるがまま変化していく在り様を言う。

そこには必然、「火」が起こり渇きが沸き上がり、あらゆるものを自分の中へと吸収させようとするその態度が気付きを高め、その人を目覚めさせてゆく。

それに拠って何かがこの世界に生まれるとしたら、それは成り行き。
妊娠・受胎・出産を計算する事など出来ない。
それらはこちらの手を離れたところでの予測されざる恩寵。
だからそれは結果論ではなく瞬間瞬間のプロセス。
それゆえのもたらされた時の喜び、そして至福。

自分を請け負う・引き受けると言うのはけして周囲に対して世界に対して閉じると言う訳ではなく、感受性のアンテナは常に全方位に開かれ「聞き耳」を立てながらも、またその都度自分を忘れない、その感覚、その思いその気分、身体、マインド、ハート、精神、あまねく自分を貫くものを忘れずにいる事。

独自とは読んで字の如く、独り自らに在る、留まる、寛いでいると言う意味。
何事であれ様々なものを取り込むにも、そこに主体が存在しない限り、そしてそこから自発的に開き受け取らない限り、取り込み吸収する事は出来ない。

しかしそこにはリスクがある。
誰からも理解されないと言うリスク。
そして独自で在り続けると言うのにはそれ相応以上のエナジーがいる。
マインドはそれは疲れる、面倒臭いと言う。そこまでいきり立つ事はないじゃないかと。

そうして人は仮面、人格、常識、固定概念、偏見と言った「枠」の中に安易さを持って縮こまる。そしてそこには驚きも新鮮さも喜びも、そして愛もない。

iphoneを使ってはいても、それではどこにも何にもそして「自分」にも、繋がる事はけしてない。

不便さの中では人はただ手放さざるを得ず、またその無駄な足掻きをせざるを得ないが、その回り道がまたその人の肉付きとなり旨味や香りになったりもするもの。
その人がそのプロセスに寛ぎ受容し喜びを持って向かい容れたなら。

それは差し詰め、人間には20キロヘルツ以上は聴こえないけれど、そこに何かしらの「実体」を感じる様なもの。
聴こえないからない訳ではないのだ。
いや、むしろ聴こえないから在る。

その奥行き。
その皮膚感覚。
遠近法の絵ではない実際的な空間的拡がり。
そう言った背後感と言えるもの。

しかし本来人は考える以前に独自な存在。
そして本来独自で在るのに努力はいらない。
それはただ自分を感じる事を許す事、それだけ。
身体で感じハートが指し示すままに流れてゆければ、人はただ独自で在り続ける。

マインドと言うのは両刃の剣で使い方次第でどうとでもなってしまうもの。
刃物は料理や縄を切ったりするのに使う分には有効な道具だけれど、自分に向けたらそれは自らを切り刻む。破壊してしまい得る。

それは音楽理論やレシピ、言葉として機能させる反面、論理・計算・分析と言った性質が行き過ぎると人の持つ潜在性や可能性、人間をも含むこの森羅万象、宇宙の流れ、存在の神秘さから人を無惨にも引き剥がす。
ごく狭いキロヘルツの中にアイソレートさせてしまう。

マインド以前として、まず人は身体を持ってこの世界で生きている。
気付いてい様が気付いていまいが。

その身体の電源をONにする事が人が生きて行く為にまず何より必要で、これはPCで言うならば本体に当たる。
そして深い呼吸を通して電流、生気・プラーナが満ちてゆく。
身体はこの世界で「生きていく」に必要な根付く場所。
OFFのままでは生きてはいかれない。
と言うより「味わえない」。

また一人一人の本質、エッセンスとして、それぞれ「ソフト」があるとも言える。

電源ONにしたはいいが、そのソフトを「使おう」にもそこには、過去、人格、固定概念、偏見、強迫観念、条件付け、トラウマetc、様々な本来のエッセンスの機能を滞らせるコンピューターウィルス、つまりはマインドの暴走があって、多くの人を機能不全にさせている。

このコンピューターウィルスを浄化させ本来の「機能」に戻してゆく、その技法とプロセスが、まずもっての「瞑想」と言う事で指し示されている事。

それに拠って本質・エッセンスが浮き彫りとなってきて、またそれを十全と生きる程に、人は自らに寛ぎ始め、自らを楽しみ始め、自らのこの貴重な生を喜び祝い始める。

自らに調和してゆく者は、それを超えた、それを含むそれ以上の、瞬間を流れる永劫へと調和し始める。
その超えたる全体、OS、オペレーションシステム、またはゼロポイントフィールドと調和し在る様になる。
それが「瞑想そのもの」、本源。それ。

しかしOSはけして目に見えない。
実際にもMACやウィンドウズのロゴが出るだけで、余程システムエンジニアでもなければ誰も何も解らない。
しかし同時にOSがなければPCはけして機能もしない。
誰もが「それ」を自らの中に携え、また別に言えば「それ」はあらゆるものをその内に携えている。

そう言う意味で、光明を得た人、と言うのはその全体、システムと調和し理解しそれを生きて在る、究極のシステムエンジニアと言えるかも知れない。
言葉のあや。


何故にこう言う話をするかと言うに、この全体・存在・OSに自らを手放さない限り、クリエイティビティー・創造的状態にはなり得ないから。
それは俗に言う「神が降りた」とか「神がかり」と言う状態。

それは様々な現象や出来事、体験の中に垣間見える。
その新鮮さと驚愕。
その瞬間、自分と言うものは手放されていて、その空っぽさの中にこそ初めて、神と言う名の創造性が顕現し生み出されていく。

しかしそれは十全と今この瞬間、実体として在り、目の前にあるその行為、その物事、意識をみなぎらせた没頭さの只中において、初めて訪れる。

人はまず、そして何よりも等身大を生きねばならず、またそう言った自分を受け容れていく以外なく、例えささやかなれども気付きが照らされれば、その等身大が意識と共に徐々に徐々に拡がってゆく。

古代インドの人々はそのプロセス、またそれを支える技法、そしてその在り方を「タントラ」と言った。

それはサンスクリット語で意識の拡がりをもたらす為の技法と言う意味。

身体に深く根付き、
愛を持って、
拡がりを持って、
あらゆるものに開かれ、
自分の中にあらゆるものが入って来てまた出てゆくに任せる、
何ものも斟酌せず沸き上がってくるあらゆるものを全面的に受け止めて吸収し味わい分かち合う、
人や物事、世界を鏡に自らを見つめ感じ変化を受け容れ、自らの本質・エッセンスを実現・成就し生きてゆく、その在り様。

その要点は結局のところ、素の自分自身に寛ぐ事。
その寛ぎの流れの只中で人は自らを愛し、その愛は他者やあらゆるものへと溢れてゆく。
その満ち満ちた放流、うねる躍動に創造性と言う柱が立つ。
愛は母の様に、
創造性は青年が持つ生命力の如く。

その道すがら、創造性は思春期の悩みの様に煩悶を生み出す。
生みの苦しみ。
自らを焚き付け焚き付け、そこから自らを浄化するカタルシスのステージ。

そして強烈にエナジャイズし腹に据わり切った時、その空っぽさの中に静けさ、
その瞬間の動の中の静。

こう言った瞑想のプロセスを通して人は自らに寛ぎ始め、ある時創造性がマグマの如く沸き立つ。
そう、芸術は爆発する。
創造性は無心の只中にて顕現する。
だからこそ昔から「無心になれるものを見つけろ」と言われてきた。

それは正しく、瞑想の瞬間にこそ人は自身に寛ぎ、全てを愛で、真に創造的になるものだ、と言う生きた理解だった。

しかしそれは本当に真摯に全面的に、実存から発せられてこそ。

多くの人にとっては瞑想のプロセスを通ってゆく事は欠かせない。

そう言った様々なプロセスを通った人が初めて、心底から茶を飲む事を瞑想し、掃除を瞑想にし、歌う事を瞑想に出来る。

いずれにしても真に創造的で在りたいなら、人はまず無心の瞬間へダイブしなければならないし、また創造的瞬間瞬間に全面的に気付き細部にまで神を宿らせんとする情熱をたぎらせ没頭しなければならない。

創造的な人と言うのは自らを徹底的に「使い倒す」。
けして「使われるまま」ではない。
画一さ均一さとは敷かれたレールであり、経済的効率であり、自らをとことん味わい楽しむ事に対する怠惰であり、もっと言うなら自らへの無慈悲、愛のなさでもある。

人はそこでは本当のところ抑制されざるを得ない。
本当のところ、けして身軽にはなり得ない。
画一さ・均一さとは自分自身が生み出したものではないのだから。

もちろん分かった上でそれらを楽しむと言うのはあるが、それには余程の鋭く柔軟でリラックスした気付きが必要で、そう言う気付きのある人と言うのは自身を遊び味わいトータルに生きてるもの。
そう言う人の目は「死んでない」。
その目は鋭く不思議な輝きがあって、どこかで確かに「無心」が一瞥であろうともを味わわれている。
目覚めと明晰さ、一徹さ、そして生への愛。

それはつまり、人や物事、周りに影響はされず、自分から共鳴共感し取り込むものは取り込み、でなければごめんなさい、と、
それは芯に据わってると言う事。
まず自らを生きていて、それが故に人の為にも何かが出来る。

我がままを経験し理解しなければ在るがままは分からない。
愚かさや間違いが犯されなければ、真に知恵深く賢くはなれない。

しかし社会や会社と言う組織の中ではその機械・プログラムが円滑に機能する事が優先され、その合理性故に個性やそれらの体験、人間として必要な土台と言った事は後回しにされてしまう。ないがしろにされている。

これはけして、人が創造的状態となる事の助けにはならない。
愛も幸福もない。
ある訳がない。
何故ならそこには気が流れていない。
流れられない。

そして人が創造的状態になければ無気力で死んだ様なからくり人形、機械となり、日々をやり過ごし、結局のところまるで癌細胞の様になって周りへと広がり、ひいては組織自体が致命的になって終わるのだ。

そもそも組織とは「様々なものが組み合わさった状態に対する認識」と言う意味。
だから組織とは硬く死んだコンクリートではなく、その瞬間の自然の様に変化し続ける流動体の様を言う。そこには気の流れがあり、互いの間を廻っている。

それは人間の体が七年で全細胞が入れ換わるのと同じだ。
正しく一新される。
同じ瞬間は一つとしてない。
呼吸を吸って吐く。吐いては吸う。
肺は常に新鮮な酸素を必要としている。
それが「生きていると言う事」。

ところが大半の人々は肺の機能の25%しか使っていず、その中には二酸化炭素が充満していて、ひどい喫煙ルームの状態。

その不活性な状態が思考過多にさせ、その状態の人々が自分を疑い互いを疑い、鞘当てし戦い争いヒステリックになっているのが、いわゆる今の社会。

それは真に「生きている」「生きようとしている」者同士が互いに切磋琢磨し高め合うのとは違う。
不活性と無意識、みなぎる活力と拡がる意識では雲泥の差。

個性・独自性は誰もが内に秘めているけれど、それは自らに働きかけワークしていってこの世界に顕現しない限り、自分と言うものを成就は出来ない。

魂を云々する前に魂が自らに拠って生み出され、魂を自覚し、具現しないといけない。
それは自分を痛め付けると言う意味ではないし、自分を受容しないと言う意味でもない。
ただひたすら全身全霊で自らを観照していく、そしてそれを生きていくと言う事。

そこには否定性は微塵もない。
自分自身への遊びと情熱、愛と気配り、躍動と寛ぎがあるばかり。

魂を輝かせるにはまず「火」を起こさなくてはならない。
自らに拠って。
その厳しさは時に辛くとも本わさびの辛味の様に後に不思議な清涼感を残す。
そしてその過程で流れた汗と涙の分、「水分」が必要になれば自ら喉を潤す。
差し詰めそれが受容性。

こう言ったプロセスの中で、ファットスプレッドが極上の発酵バターに、メッキが黄金に変容する錬金術が起こってゆく。。。

そこには恐れや不安、悲しみ、怒りなど様々な感情も去来しながら進んで行く。。

その全体を丸ごと包み込み見守る事は自らへの、そしてあらゆる人々の生への慈愛。

そう言った背景があって初めて、創造性はある時爆発する。
凝縮された「個」と言う一滴が大海へと溶け去って成就する。。


創造性は個から発せられつつ、それが様々な個と絡み共振し、また離れ独自に発し、そしてある時また再会して共鳴し合い、それはアラベスクの様に折り重なり溶け合った全体として瞬間瞬間に新鮮に、更なる幅の拡がりをもたらせてゆく。
地球環境の様に、この大地に根差しながらそこに生まれ死にまた再生し。。。

占星術に拠れば同じ星の元に生まれる可能性は二万五千年に一度。

人はそれ程の個、光を放っている。

その星の数ほどある個が、それぞれの流れに正直に、真摯に、真正に流れてゆく時、
無数の個が折り合い重なり溶け合い、組み合わさった全体と言う視野が明らかになってゆく。。

神の視座。



日々の瞬間、創造性は誰しもの中に脈打っている。
それを恐れず嫌悪せず抑える事さえなければ。

その流れは誰しもを通して顕現したいと願っているのだ。
そして個と言う種に水が撒かれ木となり枝葉を伸ばし花となって香りを溢れさせる様にと。

それを抑える事こそエゴイスティック。
また抑えない事でそれが暴発する事はあり得ない。
創造性の喜びは人を単に開かせる。
それを抑えた時の、そのエゴ、そのマインドトリップこそが破壊性。

そう言う意味で創造性はそれぞれの種から木、花、そして香りへと、育まれなければならない。
それはその最初、とてもとてもデリケートだ。
その産声は徹底して護られなければならない。
親が赤子を護る様なもの。そうしてそれは発展していき得る。

それは二つとない貴重なもの。
そこには新たな豊かな世界とその拡がりを持った意識が詰まっている。

時に大切にケアをし、時に外のあらゆるものをはね除けても護られなければならない。

過去ではなく今この瞬間、新たなものに自らのエナジーを全て注ぐ事。
それが自分への帰依、そして人への、世界への多大な寄与となる。

礼拝は自らへ、
分かち合いはあらゆるものと。
そうして創造性は内で育まれ、そして溢れ、顕現と共に分かち合われる。
そうした極みに人は真に明け渡し、存在の永劫の流れがただあるばかり。。


創造性によってこの世界に何かしらを生み出し、そして自分自身を生み出し、生きた証しを残す事。
自らはそれに囚われず、また人々の助けともなる様に。

ただ瞬間に、
今在るこの場で、
恐れや不安と胸の高鳴りを感じながら、
深い呼吸と共に生き、
先の見えない未知へ、
信頼のままに向かってゆく。。

創造性の最初の産声を逃さない気付きと共に、
生み出され、
そして分かち合われ、
愛はその自然な香りとなって香るだろう。


一人一人がこの宇宙の豊潤さを担ってると知れ。
それを楽しみそれを味わい、真に自分自身を生きてその豊潤さの中へ安らいで。

蓮の花は蓮沼で早朝に咲く。。。
苦にせず、ポンっと。
そして朝日が辺り一面を照らす。
月夜に見つめられた自ら、そのエッセンスが花咲き香る時。。

日はまた登った。。




☆*○*☆*○*☆*○*






今回も?文章が固い表現になった。
文章や言葉の難しさ。。

自分の中ではもっと砕けたジョークとかもあるのだけれども、文章だとね。。
本来こう言った事はその場で自らの実存・体験から語るものだから。

俺もまた途上に在るから、進んでは少し戻りまた進みって感じだけれども、俺の場合、何であれ表現を止めない様にと感じている。

留めて染み込み発酵するのを待つ時もあれば、感じたままを表現する時もあるね。
それもまた気付きだな。



まあいつも食べごたえたっぷりなフルコースになりがちだけれども(苦笑)、
気軽な軽食って感じはのもアップしていこうと思うから、それはまた次の機会に♪


ではまた(^-<)☆



LOVE
Ramesh
 4heroと言う、ドラムンベースと言うクラブサウンドのレジェンドのアルバム、「Two Pages」のライナーノーツに添えられた文章をここに載せる。内容はけしてこの手のアーティストが考えそうと馬鹿には出来ない。。。



 ドレイクの方程式【訳注:60年代初頭に、フランク・ドレイク教授によって考案された方程式】によると、我々の太陽と類似した恒星と、その周囲を回転するMクラスの惑星の数を、H2OをもちうるMクラスの惑星の数で割り、それをまた様々な要素で割ると、我々と同等のテクノロジー、もしくはそれ以上のテクノロジーをもった惑星の数が算出される。それはなんと、この銀河系だけで、少なくとも1万を超えるという…
 したがって、宇宙に存在する何億もの銀河系の事を考えると、人間は、他の惑星に物理的に飛ぶことをやめ、別の次元でそれらの惑星と交信することを考えねばならない。つまり、音楽のマスマティックス・数学を通してそれらの天体と交信しなければならないのだ。

―時間と宇宙において、2+2はいかなるときも4なのである…

 2台のテクニクスSL1200(ターンテーブル)を操ると、音楽が数学と同等のものであることを悟ることができる。ミックスとは、明らかに、数学的な概念に基づいている:割り算、かけ算、足し算、引き算。それゆえに音楽的な集まりを地母神と生命を称える宗教的儀式と呼べるのだ。音楽=数学であり、音楽は全宇宙を司る原初の創造エネルギーなのだ。
 単なる崇拝者たちは、音楽に潜む真実と原理を理解することができない。しかし、音のクリエイターは、宗教で言うところの高僧なのであり、音楽がもちうる数学的、音響的可能性、そして形状を知り尽くしているのである。そして、彼らは、音楽を使って人間の無駄な要素を切り落とし、人間の精神の奥深くに潜むものを露呈するのだ。それは、繊細な感情から暗黒的感情、そしてその中間に存在する全ての感情なのである。数学なしには、何事もありえないのだ…
 伝統の数々を辿ると、黄金時代、古代エジプト、オルメク文明、トルティカ文明、マヤ文明、アステカ文明、ギリシャ文明、ローマ文明、メソポタミア文明、ユダヤ教、仏教、聖堂騎士、そしてキリスト教以前にも、音は重要な役割を果たしていたことが分かる。これらの文化は全て太鼓、吹奏楽器、打楽器、そして歌を使って、宇宙意識の知識を人々に広めていた。人々は、英知を授かって踊ったのである。

―我々は全員、未来の弟子なのである…

 残念なことに、我々は、真の自我が何者であり、どこに存在するのか分かっていない。身の周りに存在する文明は、物事の本来あるべき姿ではない、ということを、我々は直感的に悟っている。周りに存在するのは生きたものではなく、ビジネスなのだ。それゆえに、現在のどのポピュラーミュージックも、金銭的な報酬を唯一の目的として育まれてきた。しかし、アフロビートの伝統を受け継ぎ、内なる魂を表現したジャズとダンスミュージックだけは例外だ。しかしながら、この砦さえも、バビロンのメディアによって崩壊しようとしている。メディアは、堕落と退廃のしもべなのである。ビジネス、つまり数学の暗黒の側面が、我々の世界を支配しているのだ。工業化が進むにつれ、我々は宇宙を司る法を無視し、個人の富と利益だけが人生における最大の目標と見なすようになってしまった。それを証明する例を述べよう。古代エジプトでは、旅人が喉の渇きをいつでも癒せるように、どの家の前にも水指しが置かれていた。1997年において、我々の家の前では、麻薬を売る売人が待ち伏せている…
 我々は、大自然から授かったものを拒み、機械化を選んだ。この世界の機械化が進み、人工的なリアリティーが我々のイマジネーションのスーパーマーケットになってしまった。我々はそこで、腐りかけている概念と味気のない考えを、疑いもなく買っている。我々の文化は、それを構成する市民の考え方と同じように閉ざされており、人々は、新しい概念や異端的な行動によって、現状が覆されるのを恐れている。例えば太陽の研究者や考古学者は、マヤ文明が太陽黒点の知識をもっていたという事実を無視し、人々はエイリアンの存在を信じようとしない。
(多少省略)
あるいは
ことによると、地球は、無限なる宇宙の中で、孤立して存在する唯一の生命体であり、そこにはあらゆる種類の生命が、複数の次元の中で共存しているのかもしれない。お互いの存在を知らずに、いくつもの【Parallel Universe 異次元空間】がこの惑星をシェアしているのかもしれない。

―我々は、自分たちが賢いと思い込んでおり、貧困と飢えにまみれた世界の中で裕福に生きている

 したがって、人類は他の惑星の生命体と対面するのを恐れているのだ。もし、エイリアンが【時空の波】を利用して地球にワープすれば、人間の貪欲さと破壊力を目の当たりにするだけだろう。我々人間が、この銀河系の一部を破滅させている一番大きな要因なのだ。20世紀は戦争の世紀と呼んでも過言ではない。これほどまでに血を流した100年間は、人類史上初めてなのである。この世紀の最初から最後まで、我々は戦い続けるであろう。戦場や、映画の中や、車のレースの中で我々は闘い、我々はエスニッククレンジング・民族浄化を平気で行う。そして究極的な破壊力をもった兵器を使って、我々はあらゆる形で 戦い続けるであろう。それを見たエイリアンは、我々のことをどう思うだろうか?
 我々は2万5千年という宇宙サイクルの重要な節目に辿り着いたのだ。そして、この章は【黙示録】と名付けられている。

―夜空に浮かぶ一つ一つの星が全ての答えをもっているのだ

 人間は地上に一億年も存在しているが、今も昔も人間の賢明さは変わっていない。歴史において、何の痕跡も残さずに消滅した偉大なる文明は、いくつあっただろうか?歴史は、五千年前までしか記録されていない。ノアの洪水以前の歴史は、洗い流されてしまったかのようだ。しかし、太古の人々は、原子力発電所や、電磁発電所、戦術用潜水艦などを発明しなかった。こららは、世界戦争があれば全地球を破壊し、重力という数学的原理に基づいて、この太陽系も破壊するであろう。石器時代の人間がしたことは、けっして些末なことではない。彼らは、巨大ピラミッドを設計したが、これらは未だに数学的な精密さで特定の星座の位置と照合している。現代人は、未だにこれらのピラミッドを構成する石を動かすことができないし、これらの石の彫り方さえも解明していない。太古の人々は文字体系を発明し、宇宙と地球に関するおびただしい科学的な英知を、その文字を使って暗号として残した。現代人は、強力なコンピューターを使って、ようやく文字の意味を解明できるようになったにすぎないのだ。

―UFOは、地球の最期を見守るためにやってきている…

しかし、天界を支配する数学の神に向けられた我々の音楽、祈り、そして祈祷だけを聴いたなら、エイリアンたちは、我々にもポジティブな側面があることを理解してくれるのではなかろうか?我々人間が【Universal Love 普遍的愛】の言語が話せることが分かるのではないだろうか?
 我々の音楽は、失われた言語の空白を埋めているのだ。この音楽は、ギザのピラミッドのように、永久に光を放つピラミッドを宇宙に建設しているのだ。この永遠な、無数の層をもったサウンドスケープは、文明の真のあり方、そして我々の真の自我の痕跡なのである。
 サウンド・アーキテクト、音響建築士たちの中には、ゴシック様式の教会音楽と同じ方法論で音楽を作る者もいれば、黙示録の音楽を現代に蘇らせる者もいる。そして、音楽を使って大自然を 讃える者もいれば、英知を放つ者もいる。時間はかかったが、我々は、やっと一周してスタート地点に戻ったのではあるまいか。リズムとハーモニーを発明し、集団的無意識を遺産として残した太古の人々と同じ道を歩み始めているのだ。この集団的無意識とは、自然のリズム、全ての人間のDNAに潜む真の力、そして神々が一人一人に刻印した指紋のことなのだ。しかし、我々は眠っているときや、夢という精神世界にいる時しか、この力に気づかない。

(以下、4Heroの歴史に関する部分は省略する)


今聞いても本当に美しくグルービーで叙情詩たるメッセージ性のあるアルバムだ。。
特に【Universal Love】はいつ聴いても、涙しながら踊っている。。。

この詩の内容だけならただの哲学でしかないが、音そのもの、音響的音楽的体感体験が身体、精神、魂を揺さぶり、味わう者がその中に全面的に没入したなら、音楽とは、やはり祈り、そして捧げるものだ。。。

こう言った事を馬鹿にしたり揶揄するのは簡単だが、全面性なくそうする者は、ただの遠近法の絵画で終わるだろう。
音楽と言う瞬間に全面性をもって赴き、自らを見つめ、祈り、捧げた者は、音響の只中へと溶け去り、空間を超えた次元で生きるのだろう。永劫の中で。。。

少なくともそう言った情熱を持って、失うものは何もないし、それは人間の可能性であり、栄光でもある。
ならばその栄光の為の挫折ならば歓迎しなくてはならない。それが栄光をより輝かせるのだから。。。
ゴーヤの苦味は食欲を増進させる。。。

その様々な味わいを経て沸き立つ情熱はいよいよ完結、成就もし得る。。
そして、今や静まり穏やかに大らかに涼しさを持った微笑みとなる。
慈悲とは、仕上がり、完結し、成就しゆったりと寛いだ情熱。CompleteされたPassion、すなわちCompassion。


このアルバムを聴き、詩を読んでいると、音楽との、自己との調和が思い出される。音楽に自らを捧げ、祈る。自己の本質への回帰。音が、空気の振動が、音波が、身体の、手足の爪の先まで、細胞の一つ一つ、また血管の隅々、そして分子、原子、素粒子に至るまで、耳からハートから、丹田から、音を呼吸し染み込み、染み渡らせ、音響的瞑想性の瞬間に、恩恵と共に、全てがハーモニーである事が理解される。物事が起こるべくして起こり、形となっては消えてゆく。。

この詩、こう言った音楽性、そう言った視野への共鳴は常に地下水脈の様にあり、お互いを引き寄せ合って来た。自分と音楽。音楽と共に、その瞬間に在る事による実体感、統合感。三位一体と言う様な実在性。

自分の琴線を打ち鳴らす音楽と共に額突き、額突くと共に音楽の芳香が立ち上る。。

今また、それを深く感じ、この詩のヴィジョンの様に、音響建築士にしてタントリカとして在りたい。そうすれば、直感や洞察を表現し外に溢れ出させ、分かち合う事も出来る様になるだろう。何より本来、分かち合う以前の一体性、大海が我々のただ一つの真実なのだから。そこに溶け去る為にも、ユニークで独創的な波として、ただただゆったりと自然に、自在で在りたいのだ。自己の本質を成就する事、それが捧げられる唯一のものにして、大海へ回帰してゆく道なのだから。。。



ここまでお読み頂きありがとうございましたキラキラ

LOVEドキドキ
Ramesh