斎藤恵美子『空閑風景』(思潮社、2016年10月15日発行)
 
 斎藤恵美子『空閑風景』を手に取ったとき、最初に目に留まったのはその表題作だった。未開のものとは何か。謎が浮かんだ。
 巻頭の「不眠と鉄塔」。部分を読む。

  夜の指は
  地上の無数のエレメント

 浮かんだ謎は示唆していた。一本の答えに続いていくのかもしれない。
 
 部分を読んでいく。

  「川にも、名前があった」
                    (「コンケラー・レイド」)

  静寂(ヘシュキア)の地
                       (「モノロギア」)

  青光りする月
                         (「臨景」)

  レンズの知らない海             
                         (「臨景」)

 「川」、「地」、「月」、「海」、の「彩」。これらは目を引く。視覚的な演出効果は、詩の表現をより高度にしている。魅力的である。

 「写真帖」から部分を読んでいく。

  眠りごと、持ってゆかれ
  鼓動音に、鮮やいでゆく
  ようやく持ち出した
  あなたへ、

 詩に移ろう「彩」を読むごとに、消えないもの。まるで別人かと感じるような「写真帖」は、冒頭部分から鮮烈な印象を受けた。作者の元をすり抜けていく、動的な表現は読み手にすんなりと共鳴する。共鳴する必要性は、作者の作品について読み手に親密感を覚えさせることができ、作品の中へと視線を集中させるのに大変重要な役割を担っている。

 表題作「空閑風景」にこそ、解への道があった。感動をした。一見して複雑に感じるような作品である。脈打つ作品の中には強さが際立っている。表題作は多くの人々が関心を寄せている。描かれている筆者の圧倒的な筆力に魅了される読者は知らず知らずのうちに作品の中に引き込まれていく。
 そこからの用意されている数々の解釈や見解は読者にゆだねられて筆者の意識した筆を超越した「道」となるので、普遍的な表現は多用されることはなく大胆に描き出してある。

 数々の道から解へと導かれて読了後は一種の清涼感のある作品である。もしかするとまだ先に続くのかも知れずに、その先には感動を見出せる。一筋の道があるかのようでありながら。

 詩を読むのは、誰にでもできることである。人によって感じ方に差はあるが、皆それぞれの読解をして詩を楽しむことができるならより多くの人々にとって心地の良さを味わうこと。詩を素晴らしく感じることが出来るのは、それぞれの立場によっては差があるかもしれない。けれども多くの人々が詩を読み幸せになれる。素敵なことのように感じていることだ。
 


空閑風景

斎藤恵美子

思潮社