全く未知の世界。

普通に理容院を利用している(という美容院との韻を踏んでいる人にとっては)人には単価が」たぶん違うんでしょう。

ええ、違いましたとも。



でもお金を払った分の満足はちゃんとあったな。


顧客満足とはよく言われていると思うんですが、あそこの場合は技術はもちろん、丁重に扱われるという満足感。バーニーズの上にあり、相応のステータスのある人たちが集まる中で、髪を切る以外の満足を提供する。


たぶん、それは顔がきれいで若い女の子に対してであったり(殿方向け)、足の細い顔のきれいな男の子とのおしゃべり向けであったり(夫人及び特定の殿方向け)だったりするわけだけど、高いレベルで完備していて、コンサバな当方にとっては、アウトプットというより、プロセス的な意味で満足でした。


一回一万かー。


アベノミクスで出た含み益100回分ですが、まあこれからも利益を出して行こう。。

この時代、深く掘り下げれば掘り下げるほど、ドロドロしてよくNHKでこんな形で放送したものだと思います。

色々と言われていますし、視聴率も低いようですが、なかなか日の当たらない時代、よくもまあ、やったと思います。


当方、結構楽しみにして見ています。

「叔父子」発言も出ましたし、三上博史が狂気の鳥羽上皇をどのように演じるのか楽しみです。


忠盛が当時の実力者だった描写がもっと出てくればいいと思いますが。


「王家」発言?

「王朝時代」からの類推かな程度に思っていましたが、足利義満も「日本王」で朝貢していたんだから、日宋貿易の時代はまたあったんでしょう。

あの時代、金と宋の関係は、叔父と子の関係やら姪と叔父の関係(だったかな。うろ覚え)と戦争の結果次第で恐ろしく変わってきましたからねえ。


しかし皇統の継承があやふやになってくるこの平成の御世でこの話は生々しすぎるぜ。

私も、昨年の参議院選までは消費税増税やむなし派でした。


一つは金を持っている老年層から金のない若年層に所得を移転するために、広く浅くとるための消費税が必要だと思ったこと(世代間所得移転)。

もう一つは、私のようなサラリーマンは自営業の人たちと比べると、税金の捕捉率が高い。その意味では、消費に課税するという点では納得感がある(公平性)。


しかし社会制度の変更というのは、それなりに大義名分があってなせる話だと思います。

この民主主義の世の中で、「消費税を上げなくとも、歳出削減でできる!」と断言したくせに、できない。

事業仕訳も一世を風靡しましたが、「人民裁判」のような、無知(といういい方が失礼であれば、「無見識」)な議員が、適当にさばいていく。

色々と言いたいことはありますが、民主主義のプロセスを経て、国会で議論されて成立した制度を、国会の審議も経ないでざっくりやるのは、どこの独裁国家だよ、と思われたむきも少なくないでしょう。

しかも偉そうにやったことが、全く予算付で反映されない。

いうだけやってダメでした、って、どこのだめ国家だよ。


そして国民の審議を経ていない温暖化ガス削減目標や、日米同盟の根幹を覆した上に、国家戦略を地方選挙に丸投げした(それも後には引けないんで、一縷の望みを託して自民党時代は基地移設に賛成した沖縄に、再度望みを託した、ように見えた。悲惨の一言)。

そして無能の烙印を押されて退陣した鳩山由紀夫の後をついでできた内閣が、岡崎久彦先生(私、親書や昔の論壇誌でしか接したことはないんですが、この人は外交思考の師匠だと思っています。なんだかんだ言って)が評して「極左内閣」。


スターリンや金日成、毛沢東やポル・ポトもそうですが、独裁者は他人が信じられない。

権力の集中化を図ってしまい、粛清人事を行います。そして意思決定が硬直化、バイアスがかかり効率性が落ちる。

その極北が消費税増税による民主党に対する求心力の低下と、それが顕在化し、(利害関係のあった人間もなかった人間も含めて)多大な肉体的被害、精神的苦痛、日本社会の秩序の低下(無責任な対応をしてもいいということを政府がオーソライズした)を促した、原発対応です。

原発事故がなくても、おそらく被災者対応は放置し、寒空の中、凍死した被災者は出たでしょうが、今回はそれに輪をかけて、原発の一時対応もできず(これはチェルノブイリ時代のソ連もできなかった)、避難や退去、放射性物質の拡散防止対策ができなかった(これはソ連はできた)管直人前総理。

福島県民は(まあいいたいことはいろいろあるのですが)政府の無策により、放射線拡散被害や将来の不安におびえている中、彼はSPをつけて(首相経験者にはみんなつきます)お遍路三昧。地位は手放さなかったのに、手放したら責任転嫁。


そしてその彼の主張した消費税増税を掲げ、「熟慮の国会」といった割には議論をしていない野田総理。


私の財政論は高橋洋一さんに負うところが多いのですが、おそらくマクロ経済学も(数学やってないだろうから)ミクロ経済もやっておらず、「庶民感覚(≒主婦感覚)」で有権者に訴えて、財務省の軍門に下った野田首相の消費税増税に賛成するのは、大義名分があるのか。

つまり適当なことを言って政権をとり、能力不足から適当なことどころか「嘘」になってしまった民主党政権。

約束を反故にするのであれば、前から主張していて比較的まともな自民党に任せればいいという話だし、民主党がやるといっても、「嘘つき」で「無能」な民主党の言うことを聞く国民なんていないでしょう。

我々は家畜ではないんです。


早く解散してもらい、その際に増税については争ってください。

それが間接民主制の仁義でしょう。

この映画を一言でいうと、「中身はないけど(「才能の枯渇したことを自覚しているも、周囲の期待に応えざるを得ない中年監督の心情風景に迫る」とか、そんなお上品なものではないだろう)、とにかくカッコいい!」。


という、ザ・イタリア(正確に書くのであれば、ジ・イタリアか?)感が最初から最後まで漂う、「カッコ良さを追求すればここまで(中身がないのに)くるのか!」と、スパークリングワインでも飲みながら、ホームシアターセットでこんな時間に見るのには大変おすすめな、この作品。


なんだかどうでもいい、中年男のウィットにとんだ、また奇矯な行動の端々でカッコいい映像と、きれいな音楽とカッコいい映像が流れる。

料理でいうのであれば、イタリアンのコース。

割烹やフレンチではない。

繊細さというよりも、壮麗なものが次々に飛び出してくる。

ここで見ると一貫性が必ずしもあるとは言えないんだろうが、それをまとめ上げているのが、ロブ・マーシャルのセンスでありコンセプト。


「都会性」なんだと思います。

そしてこの刹那的な官能性は、この時期にパーッと観るにはふさわしいんじゃないだろうか。


ロブ・マーシャルの特徴的なところは(これは他の人の作品を見ていないので一面的な話であれば申し訳ないのですが)、劇中、登場人物が一堂に会して歌ったり踊ったりするシーンがあるところです。

ミュージカル的といえばそうなんですが、これによって登場人物の関係とか全体像がわかる。

舞台のあるミュージカルで許容される表現だとおもいます。


しかしこういうのがあると、ブルーレイ&大画面&ホームシアターセットをそろえたいと思います。

残念ながら当方のテレビは40インチなので、大画面ではないのです(中型ですな)。


さて、私はミュージカルが好きなんですが(ワーグナーは台本、舞台、音楽とそろった「楽劇」を「総合芸術」としましたが、映画なんかはまさにそうでしょう)、その中でも何か一つを上げよといわれたら、ロブ・マーシャルの「シカゴ」を挙げます。

メル・ブルックスの「プロデューサーズ」は非常に濃いブラックユーモアを甘い砂糖とミルクで大味に味付て、見た目のいいカップで提供した毒のある作品で好きですし、アンドリュー・ロイド・ウェーバーの「オペラ座の怪人」なんて「ザ・ミュージカル」ですし、どれも好きなんですが(メリー・ポピンズやマイ・フェア・レディなんかもあれはあれで捨てがたい。。)、ロブ・マーシャルは一言でいうと「カッコいい!」のです。


なんというか「都会的」というか「都会人が演出しました」な感じなんですよね。


しかしこの劇場版。


何がすごいかって、ケイト・ハドソンの歌唱もすごいけれども、これだけの女優陣を使いこなしたマーシャルはすごい。

そしてペネロペとニコール・キッドマンが共演しているのがすごい。

トム・クルーズこの二人と付き合えた(結婚もした)から、本当にすごい。

そっちの方が「ミッション・インポッシブル」だと思いました。

もっと簡便に定義するのであれば、「(ワセダという)その響きに郷愁と感傷を持つ人たちが、関係もないのに親身になり、その名を関した記事や産業に通常よりも多くのお金を落とす商売。一種のプロモーションであり、ALWAYS3丁目の夕陽と同じように、別に改めてその時代(あるいはその大学)に居合わせようと思うことは決してないが、遠くから見て感傷に浸り、満足を得ること」。


給食を頼める居酒屋みたいなものでしょうか。


まあ、どうでもいいといえばどうでもいい。