古びて傷だらけ、穴だらけ、ヒビだらけの安っぽいベッドで見知らぬ男と愛し合うのは別に嫌いじゃない。だって動物っぽいから。本能って言葉を思い出すから。理性ってものを知れるから。



二回程果てると男はセブンスターに火をつけて、この夜景はまるできみのように美しいと言ってカーテンを開ける。あたしは、心底うんざりしていたが、そうねと感情のない声で言った。


ゴキブリって地球が崩壊しても、生き残るって言うじゃない?



あたしがそう言うと、男はまるで親戚かなにかを自慢するかのように、彼らの生命力に関する実験や豆知識を披露してくれた。あたしは興味があるかのように何度か頷きながら、いつこの男の背中を鮮血で染めるかを考えていた。



世界にとってどうでもいい存在ほど長生きするよね


あたしのその言葉に男が反応した。なにそれ、僕のこと?て彼は嬉しそうに微笑んで紅い色をしたワイングラスを傾ける。



あなたのことじゃないわ


あたしは真っ黒なソファに座る彼の膝に右足を絡めながら彼に軽くキスをした。まだ、足りないの?男は今にも笑だしそうな唇で言う。あたしは、その質問にこたえることなく、彼の股関を触りながら、一時間後の男の死体を思い浮かべた。


ああ、煩わしい

この世界のすべてが

この部屋のあかりや温度や音や色やかたちが。ああ、なんて煩わしいの。

この男の首筋も、胸元も、足首も、指の爪も、すべて冷たくなって、固まってしまえばいいのに。熱を失って、形を崩しながら、空に昇ればいいの。

ああ、煩わしい。

煩わしい。煩わしい。

この世界のすべてと、こんなちっぽけな悦びと、取るにたらない殺人ゲーム。ああ、そうやってまた地獄に堕ちていく。そうやって何度も翼を失うの。



死体というのはどんな物体であっても気持ちの悪いものだと思っていたけれど、その男の裸体は妙に綺麗で朱色の液体がとてもよく似合っていた。あたしは、泣こうとしたし、わらおうとしたけど、男と同じような色の水は、いくら待っても出せそうになかった。



空を見上げる。夜景よりも暗い空の奥の奥に、眞裕がいるのかもしれないと思うと、それだけで胸が痛む。何度も。何度も。



眞裕は、25歳でヤクザにめった刺しにされて死んだ。彼の澄んだ青い瞳を見ることはできなかったけど、彼の細くて透明感のある肌や、長い睫毛や、薄い上唇が傷付けられていなかったから、まるで長い時間眠っているように見えた。あんなにも綺麗でいとおしい死体はいない。



あたしは上司から渡された黒い携帯から、無事に終わったことを告げ、部屋を出た。鍵をかけて扉の前に置く。完全犯罪。世界にはそんなものがありふれているらしいけど、あたしがその一部を担う日がくるとは思わなかった。



男の名前は、清水尚記というらしい。不動産会社の敏腕サラリーマンで、給料が百万円だと言っていた。その男の存在が今日世界から消えた。



男の体を警察が迎えにきて南港へ運ぶ。そこから出ているフェリーは、北海道に向かい、札幌空港から海外へ。それと同時に、ある医者のもとへクロフクが出向き、癌で死んだものとして、死亡届が出される。男は、あたしに殺されたのではなく、病死したのだ。世界はそう認識する。



あたしは、何処へいけばいいのだろう。婚約者のリュウキがくれた外出許可時間がまだ残っていた。



愛してもいない男と結婚しなければいけないとき、女は墓の中に入る覚悟で、息を止めなければならない。いつか目を開けるときは、どうか哀しい夢でないようにと、祈って。祈って。



その黒い石は所々尖っていたり丸みを帯びたり、へこんでいたりヒビが入っていた。丸い固まりが手を繋ぐように並んだ細いブレスレットを何を考えるでもなく眺めていた。


24時間空いている出逢い喫茶で五杯目のコーラを飲みながらあたしは不思議に思った。三年前から肌身離さず身に付けている黒い石は見飽きているはずなのに、何故か今しがたプレゼントされた宝石に見えた。



時間の流れは実に奇妙な形であたしの前に横たわる。揺らめいていたり、流されていたり、時々きらりとひかる彗星が落ちてくる。
四十代ぐらいのくたびれたスーツを着たサラリーマンに声をかけられた。



「割りきりっていくらなの?」

男は席に腰をおろすと、間髪をいれずに聞いてくる。あたしは笑顔を作って右手の人差し指と中指でピースサインをする。男は口元を弛ませると、じゃあ出ようかとあたしの肩を叩いた。


世界はとても簡単で透明だ。お金なんていくらでもいつでも手にはいるし、24時間繁華街は賑わっているし、今だってたくさんの人間が女を買うためにこんな安っぽい喫茶店にやってくる。



あたしは首を振った。時刻は深夜の12時。今日は既に約束している男がいた。あと一時間あるから目の前の眉毛を垂らして哀しそうな瞳をしている男とセッ、クスして、帰ってくることもできなくはない。でも、あたしは躊躇なく断った。ただ面倒くさかった。



あたしはもう一度右手に絡まった石の連なりを見つめた。好きで好きで仕方なかった男が初めて買ってくれたものだ。





これは、リベンジだと言い聞かせる。これは、チャレンジだとおごってみる。あたしはただただ雄と雌がお金で売り買いされるのを横目に長いためいきをついた。



これからやってくる男をあたしはこの鋭利なガラスで殺さなければいけない。恐らく男はその理由を知ることもなく逝くだろう。そしてその理由は男にとって、いや世界にとって取るにたらないものだ。きっと。



あたしは目を閉じる。死んだみたいに。人形みたいに。感情なんか知らない植物みたいに。



時間の流れはとても穏やかで、瞳に映る前にはもう消えてしまう流星のかけらだ。あたしは、右手に力を入れて動悸を押さえようとする。



男は死を目の前にして何を思うのだろう。何を言うのだろう。それがせめてあたしを傷つける類いのものであれば、あたしは救われるだろうか。



目眩がする。耳鳴りがする。震えが止まらない。



あたしが男を殺してもあの人は笑わない。怒らない。悲しまない。



コーラの泡が浮かんでは消えた。グラスに映りこんだ黒い石。あたしは、宝石にはなれない。きっと数時間後もこうやって死にたがる。



時計の針が12時を刻み、あの男がこの扉を開けたら、きっとちいさな世界の片隅で音が消える。花が枯れる。鳥が死ぬ。



それでもいい。

それでもいい。



きっとあたしは、溺れる魚にすらなれないのだから。