*** 第144話 幸福なランチ ***
いつものように窓際の席に案内された。恵比寿駅の西口ロータリーを見下ろす席に座り、荷物を置いた。丸テーブルの上には多肉植物がモサモサと並んでいる。
「いらっしゃいませ。ご注文お決まりになりましたらお呼びください」
いつもの店員さんの控えめな低い声を左耳で聞きながら、小さな声で「はい」と答えた。
今日も来てしまった。今週は3日も来てしまった。なんなら昨日と今日と連チャンだ。
ランチメニューに目を通すがはっきり言って暗記していると言っても過言ではない。それでも一応メニューを見ているフリをする。
ああ、昨日の体重ヤバかったのに。
メニューにはカロリーが半端なさそうなピザとパスタが並ぶ。
「ご注文お決まりになりましたか?」
先程と同じ心地よい声を捉え、「あ、はい。えーと、マルゲリータとパンチェッタのピザをハーフアンドハーフで。ランチセットでホットコーヒーお願いします」私はまたもや小さな声で答える。
「コーヒーはお食事の後でよろしいですか?」
「はい」
そう答えながらメニューを渡す。その際ようやく顔を上げ、店員さんの方を向く。ヒョロリと背の高い店員さんは少し笑顔を見せてくれた。
私が働く婦人科クリニックは昼休みが1時間半ある。休憩時間も13時からなので、ランチタイムの混雑からは少しズレていてゆっくりできる。
私は図書館で借りてきた幾何学模様のカラフルな表紙の本を開いた。やはり本はハードカバーに限る。本の重みとこだわった装丁がワクワクさせる。ほんのりレモンの香りの水をひと口飲み、本を開く。
「セットのサラダです」
先程とは違う店員さんの声に少しガッカリする。
しかしサラダはいつもながら美しい。フリルレタスの緑、レディサラダの赤、パプリカの黄、カブの白。そしてシンプルながら丁寧に作られたドレッシング。
窓の外のビルとビルの間に見える青空に目を細め、サラダを食べる。
婦人科にやって来る女達は皆疲れ果てた顔をしている。そして少し無理をした笑顔をする。彼女達はほんの小さな事に一喜一憂する日々に疲れてしまっているのだ。そんな彼女達に私は毎日繰り返し繰り返し同じような話をする。
今回採卵できた卵の数は。受精の状況は。グレードは。凍結胚の数は。分割が止まった卵の数は。費用は。
繰り返し、でも丁寧に、誠実に。
場合によっては泣き出す人を宥め、勇気づける。
これで良かったのだろうかと自問もする。他に違う方法があったのではないか。違う伝え方があったのではないか。
「お待たせしました」
また、あの店員さんの声だ。
「マルゲリータとパンチェッタのハーフアンドハーフです」
私はチラリとその顔を見上げる。整えられた髭と優しげな瞳。実にモテそうである。
「それ、西加奈子ですよね」
突然マニュアル以外の言葉を掛けられ、一瞬訳が分からなくなった。それが私が持っている本のことだとわかるのに少し時間が掛かった。
「あ、そうですそうです」
慌てて答えると「僕も最近読みました」といつもより少し親しげな笑顔を見せて、彼はスっと立ち去ってしまった。
私は呆然としながらピザにかぶりついた。
ああ、ビックリした。
でも。
グイーンと伸びるチーズをフォークでちぎった。パンチェッタの塩気が美味しい。
でも。
なんだか嬉しい。
ピザは美味しく、空は青く、お気に入りの店員さんが話し掛けてくれた。
なんだかそれはとても穏やかで幸福なことに思えた。
今の私にはこの位が丁度いい。
多分、この位の幸せが丁度いい。
今度はマルゲリータをひと口食べる。
今夜の体重が増えていてもいいや。
なんと言っても、ピザは美味しく、空は青く、お気に入りの店員さんが話し掛けてくれたのだ。
午後の診療に来る女達にもこの幸福が伝わるといいなと思いながら、私はまたピザを齧った。
-end-
(C)泉コトリ
