ネノーリのハッピーのブログ

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基本はピグの出来事。ほかに人生一番の出来事。

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私も被災者の1人でした。

 

 

あれから10年。

 

 

 

当時の家族は無事でした。

 

 

 

しかし生き残れたということは、震災後で生まれた人たち、

 

東北周辺でない人たちにこの震災の復興へ忘れないために

 

伝えなければならない使命があるんだなと感じました。

 

 

 

昔も今も三陸の墓が唱えているようにいつかはまた自然災害が

起きることを。

 

 

 

でも、あきらめないでください。

 

 

 

 

 

あなた1人だけじゃない。

 

 

 

 

 

みんなもいるにだから。

 

 

 

さあ、一緒に共に絆につなごう。

 

 

 

#東日本大震災10年

 

ーーー

 

私も被災者の1人でした。

宮城出身。

 

 

当時はある新聞会社で最上階に近いエリアで勤務してました

午後2時46分発生して大きな揺れで机下に必死にしがむほど。

 

 

ビルが倒れてしんでもおかしくない事態でした。

 

 

 

長い、長かった。おさまる時間が。

 

 

 

記憶によれば5分でしょうか・・・

 

 

建物内では天井から照明がぶら下がり、

 

1階の通路の天井から水漏れが飛び出していました

 

 

 

 

外に避難すると一気に大雪に近い厳寒に見舞われました。

 

 

関係の方からカイロが配られました。

 

その時の周辺の交通路が車びっしり大渋滞が起きて、信号機が停電になっていました

 

 

 

そしてテレビで壮絶な事態といい、大津波が故郷周辺のみこむ

生中継に呆然でしかできませんでした。

 

※テレビが見れるのは会社建物自体が免震構造、かつ緊急電源装置の備えがあったことで

それが起動されていました。

 

 

無力感で虚しかった。

 

 

そして夕方、大停電と共に交通マヒが起きており、当面仙台市営バスは乗車できない

当時の自宅まで1人で全部徒歩したと。

 

 

 

 

 

そう、歩くたびに

 

 

 

 

明るいところから次第に地獄のように闇のように暗くなっていく。

 

 

 

 

 

真夜中に1人歩きは危険に伴う。

 

 

 

 

懐中電灯は持参していない。スマホ照明で頼るしかなかった

 

 

 

 

 

そんな矢先から・・

 

 

 

希望の光なのか、光のレール

 

 

それは渋滞していた車の・・・ヘッドライト

 

それを頼りに自宅への近道に歩み寄った

 

帰宅した・・・無事だろうか・・・

 

 

 

 

全壊しては・・いない?・・まだわからない

 

 

 

 

そして家族は?・・・

 

 

母・父とも顔が見えて、そして部屋真っ暗のうち、

 

ロウソクで灯りがついた雰囲気だった。

 

無事だったんだなと改めて実感した

 

 

 

翌朝になれば、風呂場が半壊となっていた。

 

 

コンクリートがむき出し大きなヒビで

今も上階から崩れそうな事態だった。

 

 

現在は罹災申請により修復されている。

 

 

 

 

そして当時の勤務会社の出社は、

 

当面仙台市営バスは運行されていないので

 

復帰できるまでは2ヶ月ぐらいほどまでかかった

 

 

 

国道4号線の交わる十字路付近にあるバス停まで

 

 

朝早起き5時から家に出てその地点までずっと歩いて、

 

 

そのバス停から」勤務会社への往復だった。

 

 

 

そんな辛かった日を思い出す。

今も涙が出てきます・・・

 

 

 

また、勤務会社から関連して復興ため生活ライフセーフなど

 

しっかりと地域の人々へ情報を発信した。

 

 

もちろん情報を絶やすく事なく、安心して生活へ送るために。

 

 

ーー

自分体験記録より 2011年3月11日 宮城県仙台市

 

 

※写真は2007年8月7日当時の大震災前に残っていた風景、大船渡市大船渡町の周辺にて

 

 

PC版ピグとしてピグライフお別れです。

アプリに引き継げできないキャラクターと記念撮影で

最後のお別れ。ありがとね。

ペコちゃん、ミッフィー、妖精ベル。

さようなら