「家族」を諦めた日

「家族」を諦めた日

40代前半の息子。80歳を過ぎた父親。
父親の描く家族の理想が呪縛のように身動きが取れず、親子関係に疲弊していた。
家族の在り方を考え、答えを探す日々。
しかし、ある日「家族」という形を諦めてしまう。
事実を基にフィクションを交えて書き連ねる記。

私は「家族」を諦めたと言っているが、

 

それは正確には「父親」への諦めなのである。

 

 

仕事柄、高齢者と話す機会はかなり多いのだが、

 

残念ながら高齢者は自らの考えへの柔軟性を持っている人はほんの一握りである。

 

または考え自体は変えなくとも、他者の意見も尊重するという姿勢を持ち得ている人は、

 

出会う方が困難である。

 

 

このようなことを書くと反論がありそうだが、

 

延べ何千人(いや万単位かもしれない)もの人と対話してきた身として

 

体感として自らの考えに固執して、事実を曲解していて正しても

 

自分が正しいという所から脱却できない人は相当数いる。

 

 

ただこれは高齢者が頑固だということではなく、

 

脳機能の衰えも関係してくる可能性もあり、致し方ないことだと考えている。

 

(このことは私は医学的分野への知識は無い為、明言はできない点はご容赦ください)

 

 

つまり、高齢者側に「考えは間違っている」「考えを改めろ」「違う意見も受け止めろ」などの

 

変化を求める対応は、まず無理だと思わざるを得ない。

 

少なからず、私は相手に変化を求めない。

 

それは父が私に体現してくれたことだ。

 

父に「変われ!」なんてことは間違ってももう口にすることはない。

 

結論、無理なのだから。変えるなんておこがましい考えでもあるし、

 

向こうも間違っていないという自信しかないのだから、指摘をされても疑問しかわかないのだ。

 

 

だから、いつまで経っても同じ過ちを繰り返す。

 

でもそれを過ちだという認識が無い。

 

とある政治家がしょっちゅう失言が話題になるが、正直それも同じではないかと考えている。

 

 

だから私が出来ることは、

 

一番近い距離にいる父だが、

 

一番かけ離れた所にいて存在が無い人、いない人と思うことしかないのだ。