今日は、わたしの日常からの氣づきの話。
ずっと 左手の荒れが治らなくて、 皮が剥けてくると、
“アァ、剥いたらだめなのに” と思いつつも、つい剥がしてしまう。
というのは、私は元来、綺麗好きで、汚いとイライラしてくる。
汚いことが許せないんだ、と
朝起きがけに、手のひらを見つめながら
じぶんの中にあったルールを またひとつ見つけた。
ホ・オポノポノをして労ってみる。
「ごめんね」「許してね」「ありがとう」「愛しているよ」
手のひらに向かって そっと撫でながら呟くものの、
「愛しているよ」が響かない。
「うそだ」って返ってくる。
確かに、汚いことをまだ愛せてない、のが本音だ。
じゃ、それはいつからだろうな・・と
はて、本当に元からキレイ好きだったのか?と
(そうしたくてそうなのか?(好み)強要されてそうなったのか?(恐れ)という意味)
振り返ってみたら、
その内 浮かんできたのは、父の言葉だった。
「きちんとしなさい」「だらしない」「ここ汚したのは誰だ!」
そう。こども時代、私以上の綺麗好きだった父は、周りにもそのレベルを強要してきていた。
それは父のフィルターのルール=家族のルールだった。
さらに奥を探っていった。
当時、そういう言葉を浴びせられるたび、
なんだか閉塞感を感じ、
父の逆鱗にふれると、
わたしは 体がぎゅっと縮こまる一方で、
奥からうわっと般若のような燃えたぎる反発の玉が出てきて、
負けずに玉を投げ返してみるのだけど(よくやったと思う)、
ねじ込まれて、
しぶしぶ譲歩して 言われたことに従う・・
というパターンがあった。
その内側から出てくる玉というのは、
魂の叫びのようなもので、
“神聖なわたしの(誰にもある聖域)エリア” を侵さないで!
“存在そのものを尊重してほしい”
”丸ごと愛してほしい”
という切なる願いと
その内なる大切なエリアを守るためのエネルギーなのだ。
そこには、大人もこどももない。
だけど、立場の違いで、だいたい押し込められて、飲み込む形となる。
自立して生きていける力がつくまでは・・
その積み重なった当時の反逆が、今頃
恨みを晴らすかのように、一人2役の一人芝居を
手の荒れをとおして行われているのかも、と感じた。
手のひらの声に耳を澄ますと、
「荒らさないで」「自然の流れに任せて」「手を入れないで」
「汚くても愛して」「丸ごと受け止めて そっと寄り添ってほしい」
との叫びが聞こえてきた。
あぁ・・・こうした穴ぼこと皮膚の再生は、
生まれては脱皮し、荒らされ(手を入れられ侵食され)、
それでも生まれては脱皮し・・を繰り返している様(サマ)のようで、
なんて象徴的なのか、と。
それはまるで、当時のわたしの心の叫び。
自然の力、自発的な力(子)
それを自分の都合で阻害していたこと(親)
そして、そんなルールの押し付けだったとしても、
それ以上に
わたしを全面的に愛している、という父なりの愛があってのこと。
ちゃんと育てなきゃという責任感から、愛と個人ルールが
時に混濁してしまうこともある、ていうこと。
そんな父自身も、そのまた親(祖母)からのルールの呪縛に
無意識にこども時代に苦しんでいたのかもしれない・・
そう思ったら、、父をハグして、労わりたくなった。
「ありがとう〜・・父なりに一生懸命、愛してくれてありがとう・・」
実際の父を抱きしめるなんて、お互い恥ずかしがり屋で照れ臭くて
できなそうだけど、
イメージの中でなら、自由だ。
その内、父が、こども時代の父に変わっていった。
よしよし・・もぅいいんだよ。自由になっていいんだよ。
好きにしていいんだよ。よく耐えてきたねぇ。偉かったねぇ。
そのままでも十分に愛しているよ・・
そんな言葉が、慈愛と共に出てきては、
優しく包み込み 抱きしめ続けた。
その子が、ウンウン、と緩み始め、ホッと安心していくまで。
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我にかえった時、手のひらへ
「ごめんねぇ」「汚くて排除しようとしていたことに気づかせてくれてありがとう」
「愛しているよ〜」
と、その凸凹した荒れた場所に、愛をたくさん込めて、
そっとkissをした。
しぜんに、
汚いのも赦せた。むしろその健気な再生力に感謝が湧いて、
LOVE♡に変わった。
でもやっぱり、
わたしの周りは、キレイでいる方が 心が落ちつくワ♡