「仮設住まいはあと何年?」「一日も早く代替地を!」~ふるさとを追われ3度目の冬迎える浪江町民
福島第一原発事故から、もうすぐ2年9カ月。全町民避難を強いられている浪江町の住民たちは、避難先での3度目の冬を迎えようとしている。先の見えない仮住まい。進まぬ新しい街づくり。23、24の両日、二本松駅前で開かれた「十日市祭」の会場で、町民たちの想いを聴いた。私たちは、なみえ焼きそば以外に浪江町の何を分かっているだろうか?
【早く土地を確保して『新しい浪江町』を】
「何も進まないというより、1年前と比べても状況は悪化していますよ。時間が経てば経つほど、町の人たちがまとまりにくくなっている。早く、いわき市にでも新しい土地を確保して、みんなが集まれるようにしないといけないですね」
政治家は、今になって「ふるさとに帰れない可能性」について言及し始めた。焼きそばを取り巻く華やかな状況とは違って光の見えない避難生活に「なぜ今ごろになってそんなことを言い出すのか。原発から15km内の土地を国が買い上げるという話も急に出てきたが、遅い。なぜ事故直後に町ごと移転を明言してくれなかったのか。10km以内の場所で、この先40年も廃炉作業が続くんですよ。そんな場所で誰が日常生活を送れますか?本当に酷い話ですよ」と憤る。
家族のためにいわき市内に自宅を購入し、自身は南相馬市で鉄工業を続けている。仕事柄、役場の職員と話す機会が多いが、町外へ住民票を転出させる住民が少しずつ増えているという。「子どもは保育所に、親は介護施設。避難先で公的サービスを利用しようとすると、どこも順番待ち。避難先の住民にならないと、待つこともできない。でも、そういった行政サービスも利用しないと仕事も再開できないのです」。ただでさえ、二本松市を中心に、福島県内各地に散ってしまった町民。「だからこそ、早く新しい町を」と訴える。
隣では、浪江町商工会の女性部が、すいとんを販売していた。誰もが「何も進まない。ずるずると3年近くが経ってしまった」と話した。「浪江町は原発立地地ではなく隣接地だから、つぶれちゃっても良いと偉い人たちは思っているんじゃないの?」とも。
「なぜ国は早い段階で戻れないと言ってくれなかったのか」。異口同音に耳にしたこの言葉が、ふるさとに戻れる期待をいたずらに抱かせた政治家や官僚の罪深さを物語っている。
もはや全国区になった「なみえ焼きそば」。だが、
浪江町民の避難生活は、先が見えないまま時間
だけが過ぎている
【仮設での3度目の越冬と国への不信感】
先の見えない避難生活。2200人以上が二本松市や福島市、本宮市などに点在する仮設住宅に入居している。二本松市内の仮設住宅での生活が続く男性(66)は「早く国に土地を買い上げてもらい、新しい土地での『浪江町』を始めたいよ」と語気を強めた。
バッグや人形、布草履などが、仮設住宅ごとに披露された作品展。それぞれにサークルが誕生していて、曜日ごとに活動日が決まっているという。ある女性は「こういうことでもしていないと、頭がボケてしまう」と作品を前に苦笑した。厳しい冬を前に、サークル活動はコミュニケーションの場でもあり、住民同士の安否確認の場にもなっている。
「仮設住宅は、あくまでも“仮設”。業者だって国から『しばらくの間だけ』としか説明されていないだろうから、壁も窓もちゃんとしていないものもある。場所にもよるけどね」
多くが避難所を転々とし、ようやく始まった仮設住宅暮らし。夏は暑く、冬は寒い。中通りには、浜通りには無かった積雪もある。入居当初は、風呂の追い炊きさえできなかった。「国は、あたかもしばらくすれば町に戻れるようなことを言い続けて来たけど、誰も戻れるなんて思っていないし、特に若い人たちは戻る気も無いだろう。それが今になって原発から15km圏内の土地を買い上げるなんて話が出てきた。どんどん町がバラバラになってしまう。一日も早く町ごと買い上げて欲しい」。作品展に集まった仮設住宅の入居者たちは一様にそう語った。
浪江町から飯舘村の親類宅を経て、現在は二本松市内の仮設住宅で暮らす30代の母親は「早く仮設を出たい」と表情を曇らせた。
「壁が薄いから、隣人の咳も良く聞こえる。夜遅くまで起きているらしく、テレビの音がずっと聞こえていて…。まとまったコミュニティなんか要らないから、早く落ち着いた生活を送りたい。それに、二本松市も放射線量は高いですし」
町ごと移転も、静かな落ち着いた生活も、いまだ叶わない。この先、何年“仮住まい”が続くかも分からない。
「俺たちが何か悪いことをしたか?」
先の男性の問いかけに、私はただ首を横に振るしかなかった。
仮設住宅ごとの作品展。“商品”として販売でき
そうな立派な小物類が並べられた。先の見えな
い仮設住まい。「こういう物でも作っていないと頭
がボケてしまう」と入居者は苦笑した
【取材対応禁じられ罵声浴びた消防隊員】
「原発事故直後は、メディア対応をするなと上から命令されていました」
現在は、川内村を拠点に活動を続けている双葉地方広域市町村圏消防本部・司令補の男性は、当時の活動を収めた写真パネルを前に振り返った。震災前から「万一の時は残ってくれ」と東電に要請され、放射線防護に関する講習も定期的に受けてきた。消防署など全て目張りをし、30km圏内での活動を続けた。しかし、メディアでは東京消防庁の活動ばかりが報じられた。隊員たちは倉庫や駐車場で寄り添うように仮眠をとりながら活動を続けたが、住民には伝わらない。家族に会いに避難所を訪れた隊員が「東京消防庁はあんなに頑張っているのに、お前らは何をやっているんだ」と心無い罵声を浴びたこともあった。退職者が相次ぎ、120人以上いた隊員が、100人を割り込んだ時期も。
ここにきて、ようやくメディア対応が“解禁”となり、9月には、当時の活動が全国紙で大きく報じられた。「やっと報われた気持ちです。従来からの講習が生かされ、ホールボディカウンターでの検査でも、1人の被曝者を出さなかったことが、われわれの誇りです」
会場で歌声を披露した歌手の理恵子さん(24)は、18歳まで浪江町で育ち、現在は都内を中心にライヴ活動を続けている。
「ニュースで取り上げられる機会も少なくなった。東京ではどんどん、忘れられている。これからも歌を通して、浪江町の現状を伝えていきたい」
間もなく、浪江町にも原発事故から3度目の師走がやってくる。
(上)(中)請戸小学校の黒板には、派遣された自
衛隊員や機動隊員らが多くのメッセージを子ども
たちに書き残して行った
(下)原発対応に追われた消防隊員。しかし、その
活躍ぶりは当初、メディアで報じられることはなか
った
(了)