「ヒバクシャ」を知り尽くした医師・肥田舜太郎が訴える内部被曝の危険性 | 民の声新聞

「ヒバクシャ」を知り尽くした医師・肥田舜太郎が訴える内部被曝の危険性

まぶたの毛細血管からの出血など未経験だった。患者が次々と40℃の高熱を出す。鼻から口から肛門から大量の血を吹き出し、毛髪が毛根ごと抜けて白くなった頭を血の海につけて死んでいった。被曝の地獄絵図。そして現れた火傷の無い患者。原爆投下時は福山市にいた兵士は3日後、この世を去った。これこそ今、福島原発事故で影響が危惧されている「内部被曝」だったのだ。「被曝」という言葉すら知らない28歳の若き医師・肥田舜太郎さんは、米軍の原爆投下で壊滅状態となった広島の町で悲しみに暮れる暇もなく治療に追われた。そして誓う。「こんなむごいヒバクシャを二度と生み出してはならない」。それから60年余。恐れていた第二のヒバクシャを原発事故が作り出した。94歳になった若き医師は、ひ孫世代のために全ての原発を止めようと訴える。原爆の放射線を直接浴びていないのに同じ症状で死んでいった多くの「内部ヒバクシャ」の無念さ。それを知り尽くした医師の訴えは、二度目の被曝を防げなかった贖罪も含んでいて鬼気迫る。



【毛根細胞ごと抜け落ちた毛髪】

福島原発の事故から8カ月が経った11月15日夜、東京・JR水道橋駅近くのたんぽぽ舎で行われた講演会「低線量被曝の時代を生き抜く」は、少しでも被曝回避のヒントを得ようと集まった聴衆で熱気にあふれていた。

「学校で習ったこともない、見たこともない症状が次から次へと出てきて、何が何だか分からないかった」

90歳を過ぎてなお精力的に講演活動をこなす肥田さんは、はっきりと大きな声で話し始めた。

日大医学科から陸軍軍医学校を卒業、広島陸軍病院に軍医として赴任した彼を待っていたのは、米軍の原爆投下。野戦病院と化した町で、40℃の高熱を出す患者の治療に次々と追われる日々。民家は爆風で倒壊しており、患者は村の道や空き地に横たわった。鼻と口から出血し、まぶたの毛細血管からも血を流した。自ら患者と同じように横になり無理やりスプーンで口を開けて扁桃腺を調べようとすると、猛烈な悪臭。口の中が放射能で腐っていたのだ。患者が頭をなでると毛髪が毛根細胞ごとごっそり抜け落ちた。女性は命とも言える髪を失い大声をあげて泣いた。毛根さえも失った頭皮は青くなく白かった。その白い頭を、自分が吐いた血の海につけるようにヒバクシャは死んでいった。

「原爆も放射能も分からず肉体労働を続けた」。数年後、これらの症状は「急性放射能症」だと耳にした。放射性物質をまき散らしたアメリカが名付けた病名だった。

「そんな洒落た病名を付けられても…。むごたらしくて見ていられなかった」

高熱、出血、猛烈な口臭に毛根細胞ごと抜け落ちる毛髪。

これらが全部揃ってなお生き残った患者は皆無だった。

28歳の青年医師が目にした光景は、言葉をどれだけ尽くしても語りきれない惨状だった。
民の声新聞-肥田先生①

「ひ孫の世代のために目の黒いうちに全ての原発を止めよう」

と呼びかけた肥田さん


【ピカに遭わなかったが同じ症状で死んだ兵士】

やがて奇妙な患者を診察した。

「わしはピカに遭ってまへんで」

原爆投下後に福山市内から広島市内に入った救援部隊の兵士だった。

腕には紫色の斑点が確認できた。原爆を直接浴びておらず火傷もしていない。激しくだるいのだという。

とりあえず寝かせておいた。すぐに回復するだろうと思った。

3日後。

兵士の事が気になり看護師に尋ねると予期せぬ答えが返ってきた。

「死にました。他の患者と同じように血が出て臭くなって…」

内部被曝の始まりだった。

「それが皮切りとなり、似たような患者が多く出た」

家族や親戚を探しに県外から多くの人が放射性物質漂う広島を訪れた。そして被曝をした。

内部被曝患者は、勤務地が山口県の国立柳井病院に変わっても続いた。

「患者は身体がだるくて動きません、と言う。他に症状は無い。そんなことで診察を受けに来る患者は初めて見たものだ。あの時ばかりは、プライドの高い医師たちも『分からない』と口にした」

小指一本動かすのもつらい患者。火傷もケロイドも無い。どの医師が診察しても「病気ではない」と診断される。家族からは「怠け者になった」とバカにされた。理解されず「ぶらぶら病」などと揶揄された。

これらが、原爆投下の後に広島市内に入って放射性物質を取り込んでしまった「入市ヒバクシャ」であることが分かったのはずっと後のことだった。

「それらの患者は内科的に殺されていったのだ。内部被曝は確かにあったが公には認められなかった」

治療法はなく「ただ励ますだけ」の日々。死にゆくヒバクシャを前になす術がなかった。

「『内部被曝はない』などと言う奴は張り倒したくなる。『お前、内部被曝患者も診たこともないくせに』と」

当時の無念さを思い出すと勢い、言葉は荒くなった。

子どもたちが福島原発由来の放射性物質を浴びている危険が叫ばれている今と、あの頃の惨状が重なって見えて仕方ないからだ。
民の声新聞-肥田講演会

講演会の会場となったたんぽぽ舎には事前予約無し

の聴衆も多数来場し超満員となった=東京都千代田区


【少量でも怖い内部被曝】

福島原発以降、一貫して「安全」を強調している政府に「外部被曝するであろう放射線量が低いのだから内部被曝の被害も無いというのは政府の嘘だ。内部被曝に線量の多少は関係ない。どんなに微量であっても、吸い込んでしまったら内臓を傷付けます」と語気を強める。「少量の被曝だから問題ない、という主張が嘘であることは、世界の医学者の統一見解だ」とも。原発を全廃するどころか再稼働に向けた取り組みを始めている政府を「これから福島で死ぬであろう赤ん坊の命のことなど考えていない」と斬った。

忘れたくても忘れることのできない惨状。「二度とあんな世の中にしてはいけない」と誓った夏。そして60余年後の原発事故。

「ひ孫の世代が大人になった時、どのような日本になっているのかとても心配です。私の目が黒いうちに原発を全部止めてひ孫の世代に渡す。それがわれわれ大人の責務だと思います」

原発事故によって被曝を免れた人はいないと思っている。誰もがヒバクシャになってしまった今年。満席となった会場を見渡して聴衆に頭を下げた。

「命を守るのは政府でもなんでも無く自分自身。お願いですから明日から、自分の時間を少しでいいから他人のために使ってください。そしてお付き合いではなく、熱意を持って脱原発運動に参加してください」

そして最後に、こう締めくくった。

「『もう原発政策をやめます』と言ったら、政府を信用しても良い」

(了)