2年半以上も放置していたブログが残っていた。有難いことである。

 

改めて少しばかり読み返してみると、投稿した当時の身辺の状況が思い出される。

新型コロナウィルスを取り巻く状況も変わった。

詳細は差し控えるが、私の身の上にかかわる状況も最近大きく変わった。

少々生きづらくなった。

みんなが少しばかり「弱く」なった気がしている。私を含めて。

ちょっとしたことが許せない。例えば、あおり運転。

ちょっと待つことができない。例えば、駆け込み乗車。

ちょっと我慢することができない。例えば、執拗なクレーマー。

ちょっとした失敗から立ち直ることができない。例えば、思考の循環。

どれも人間の弱さである。

 

 

 

駅などの施設で「感染拡大防止のため…」という表示を目にすることが多いが、中には首をかしげるようなものも見られる。

 

例えば、とある都会の大きな駅で「感染拡大防止のため、この改札口は閉鎖しています」とあったが、これではむしろ旅客が他の改札口に向かう分だけ「密」が濃くなるのではないか?

別の鉄道会社では「感染拡大防止のため一部列車を運休しています」とある。深夜時間帯で最終列車を繰り上げる話なら分からなくもないが、昼間の区間運転列車の運休を知らせる案内である。列車本数が減る分だけ「密」が濃くなるのではないか?

「感染拡大防止のため…」とは言うものの、実は旅客収入減対策の経費削減なのではないか、と思ってしまうのは私だけか?

 

公共施設などでは長椅子に「×」印をつけて1人おきに着席させるようにしているが、鉄道ではそれがない。荷物を置いてとなりに座らせないようにしている旅客も見られるが、結局立ち人が増えて車内が混雑してくるとそれも難しくなり、スマホを使って知らぬふりを決め込むのにも限界がやってくる。密を避けるとか、感染拡大防止のためとか、色々と建前が並ぶものの、本音がすべて無くなることはない。背に腹は代えられぬものとはよく言ったものである。

国や自治体から感染拡大を抑えるために、

外出を控えるように呼びかけがなされているが、

都内繁華街への人出はなかなか減らないようである。

 

これは日本人の国民性に由来するところが大きい。

 

一般に「人の迷惑になることをしてはいけない」という漠然とした育ち方をしているから、これを逆手に取れば「特定の他者に明確な被害がなければ多少のことは構わない」ということになる。つまり、自分のしたことが特定の誰かに対して明確な損害を与えなければ、その行為が非社会的であっても他人にとやかく言われる筋合いはない、という具合に開き直るところが見て取れる。

 

例えば、通路での座り込み、公共場所での高声の会話や通話、歩道での多人数並び歩き、歩行者のそばを減速せずに通り抜ける自転車などの危険運転、そしてスマホ歩き。うっかり注意でもしようものなら「開き直り」から「逆ギレ」に移行されることも少なくない。

 

再三にわたって呼びかけられているにもかかわらず協力が得られないことの代表例に、エスカレータ内での歩行、ドアの閉まりかけた電車への駆け込み乗車がある。特定の誰かに明確な損害を与える形になっていないだけに注意することが難しく始末に悪い。場合によっては「逆ギレ」されて身の危険を被るかもしれない。だから誰も呼びかけることはもちろん、視線を向けることもあえてしないようにしている。

 

だから国や自治体のトップがいくら呼びかけようとも、残念ながら劇的な変化は起こらない。

そしてそんなことは誰もがうすうす分かっている。分かっていて協力しない。協力しなくても特定の誰かに対して明確な損害を与えたことにならないから。他者が協力していないのに何の見返りもなく自分が率先して協力するのは損であり納得できない。

そういう国民性に対して協力を呼びかけることには限界がある。

しかしそれを分かっていても空しく呼びかけなければならないのが国や自治体の仕事なのである。

新型コロナウィルスについて、行政にしても

専門家にしてもうっかりしたコトを言って騒ぎになるのが怖い。

世間からの批判を浴び、マスコミの格好の餌食になるからだ。

 

誰が見ても状況が劇的に改善するとは考えにくい。

となると専門家や政治家に頼ることにはあまり意味がない。

専門的な解説や状況の報告をいくら聞かされたところで

庶民の「どうしたらいいのか」という具体的な問いに対する

適切な回答は得られない。

 

誰もが経験したことのない事態におかれている。

正に今、自分の身を自分で守るための心構えが求められている。

専門的なことは分からないが、基本に戻って、手洗い、うがい、消毒、

そして外出を控えたり、人ごみの中に入らないようにすること。

 

「どうしたらいいのか」決定的な策がはっきりしない以上、

必要以上に騒ぎ立てることこそ愚の骨頂というものであろう。

今すぐにできることを冷静に考え、行動するのみである。

計画立案、実行指示、そして状況判断の大事なときに、

上辺だけ体裁を整え、無難に、欺瞞に満ちた「しなやかさ」で

事を進めようとする体制にまみれた組織体にも未来はない。

 

そのような体制が支配的となっているような組織体は、

一日や二日でそうなったのではなく、長い年月を経て

熟成(腐敗?)を続けたものであることが多い。

 

だから外部からの第三者の目で、その組織体が内包している

問題点を指摘しても、その組織体の一部となっている人員には

何のことやら理解することが難しい。赤セロファンを貼ったメガネで

赤い物体を観察しようとするようなものである。

 

そういう状況が生起するときは、単に年齢・時間的な長さを拠り所として

大風呂敷を広げてものを言う人間が多勢を占めていたり、そのような

特性を持った人物が管理者や支配人の立場にあったりすることが多い。

いずれにしてもそのような組織体には未来がない。

個人であるにせよ組織体であるにせよ、

物事をやりっ放しにするようなことが常態化

しているのであれば、やはりそこに未来はない。

 

事前の備えと事後の検証は重要であるはずなのだが、

とくに後者は十分でないまま立ち消えになりやすい。

だから進歩がなく、10年前と何ら変わりのない不毛な

議論が延々と続くことになる。そのような組織体の中では

「何となく」といった具合に無駄に時間だけが流れ去る。

肝心なことがうやむやにされ、知らぬ間に闇に葬られる。

 

逆に事後の検証の名のもとに、責任を押し付け合い、

悪者を仕立て上げ、それが事後の検証なのだという。

そんな病的で歪んだ組織体が堂々と勢いづいている。

大小様々であるが私の周りにもたくさんある。

前例の無いことは出来ない。

続けてきたことは変えられない。

そんな組織体に生産的な未来があるとは思えない。

 

そういう組織体には

「前任からそのような引継ぎは無かった」

「全員にそのようにしてもらっているから」

などといった責任意識の欠如や責任の回避を象徴するような「言い訳」を口にする人材が多い。

しかも一流大学の高学歴者が、である。逆に言えばそうだからこそ損をしないように頭が働くのであろう。

まるで感情的な叫びのような文面。

 

言うまでもなく帰省した実家の扉に貼られた匿名の訴えの話である。

 

匿名であるがゆえに、本人の中での感情のこみ上げがものすごい。

予期不安がむき出しとなり、その不安が他者への敵意となり、自身で

収めることのできなかった結果がこのような形で現れている。

 

子どもや高齢者への影響について言及しているが、こういう人は

結局「自分が一番に助かりたい」、「自分が一番安全でありたい」と

願うタイプである。こういう人は、限られた物資も、得られた数量が

他者よりわずかでも少ないと激高する、不安定な情動の持ち主である。

 

心因性疾患の当事者、あるいはその予備群である可能性も考えられよう。

子供の「専売特許」かと思ったら実はそうではなかった。

国家や自治体の「お家芸」だとまでは思いもよらなかった。

 

宣言やアラートを解除した途端、新型コロナウィルス新規感染者数が

希望的予測に反して高止まりとなって、再休業を求める数値的基準に

王手がかかってしまい、なりふり構わず(と言っても差し支えあるまい)、

判断基準としての数値を放棄するのだとか。

 

分が悪くなるとルールを変える。お家の都合で新たなルールが作られる。

そしてそれが「新たな段階」とか「状況で判断」とかの魔術的な言葉で語られる。

これ以上経済活動を抑制するための補償財源がないから強行策はとれない。

そんなことは誰もが分かっている。感染者が増えても背に腹は代えられない。

当の罹患者にとっては酷な話だが、行政側としては、多少の犠牲を伴っても

経済状況を回復させたい。そのためには後出しジャンケンでも何でもする。

 

それを「正」とするか「邪」とするか、最終的にそれは見る人にとって己の立場を

保障するかどうかで決まる。結局のところ誰もが「まず自分を」守りたいのである。

かく言う私自身もそうなのであろう。

言葉のトゲが人を刺すことはよくあることである。

しかしそれが特定の個人に向けられ、ものすごい数になってしまうと、

トレーニングで鍛え上げた強靭な肉体を備えた若者をも破壊してしまう。

 

たった1本のトゲであっても、それがものすごい根の深いものであると、

何十年と時間が経過しても、その記憶は昨日の出来事と変わらぬほど

いつまでも鮮明に残り続け、人生経験者の精神をも破壊してしまう。

 

言葉はよく切れる刃物としての側面がある。言論の自由があると同時に

その自由を謳歌した結果、生じた事実に対して正面から向き合う責任が

生じる。当事者に自覚があるかどうかに関係なく、である。

 

人を刺しておいて、その自覚と事の重大さに無自覚無責任な人間は、

自分が刺される番が回ってきたときに、初めて痛みの苦しさを知り、

そして人一倍声高に騒ぎまくって周囲への同情を求めるのであろう。

哀れで悲しい人間の生き方の一例である。