三田士浪(みたしろう)は、とても優秀な社員だった。仕事の効率は他の社員に比べて3倍以上、アイデア会議においても的確な意見を出し、会社の発展にも貢献していた。
 が、彼には一つ問題があった。
 彼は、身だしなみを何よりも優先するのだ。
 それは髪のセットに30分かける、とかそんな生半可なことではない。
 会社への道のりで雨に濡れれば、スーツが乾くまでオフィスには出てこない。強い風で髪形が崩れれば、1時間かけてセットし直す。目の下に隈が出来れば、消えるまでマッサージをしている。
 遅刻は日常茶飯事で、どんな重要な会議のときでも、それは変わらなかった。
 故に、取引先とのトラブルが絶えず、出世とは完全に縁が無かった。

 
 ある日のことだった。
 三田は仕事を定時で片付け、オフィスのある雑居ビルから出たところだった。
 突然、若い男から声をかけられた。
「三田さん、ですよね?」
「そうですが、何か御用ですか?」
 三田は出口で待ち伏せていたようなこの男に不信感を抱き、警戒したような口調で言った。
「私の会社に来ませんか?」
 男はおもむろに名刺を取り出した。
 差し出された名刺を、疑わしげに見ると、そこに書かれた会社名は、世界一と名高いエヌオー・コーポレーションの日本支社だった。
「……!?」
 三田は驚いた。何よりも、何故自分が、という気持ちが大きかった。
 そんな三田の心中に勘付いたのか、男は言った。
「あなたの能力を買ってのことです」

 場所を近くのカフェに変え、話は二時間ほど続いた。最初は丁寧な口調だったが、そのうち主導権を握ったと見ると、語調が変わっていった。三田はそれを、大企業らしいと感じた。
 最初は疑いの気持ちも大きかった三田だったが、話を聞いていくうちにその考えはなくなっていた。
 三田は、出世と縁は無いが、出世願望がないわけではない。
 むしろ渇望しているほどだ。
 しかし、彼の中で身だしなみの優先順位はけっして変わらない。
 この仕事を成功させればきっと出世できる、などという不確定な言葉のためにむげにしていいものではなかった。 
 この引き抜きは、出世がなくとも、明らかに給料の底上げになるだろう。
「その気があるなら、20日の朝9時、駅前の○○ビルの3階のオフィスに来てくれ」
 男がそう言って去ったときには、三田はもう決心していた。
 この引き抜きに絶対乗ろう、と。


 三日後、20日の朝。
 準備は万端だった。彼の中での身だしなみは決して変わらないから、朝に髪のセットにかける時間も変わらない。勿論そこは普段から余裕を持っている。
 家を出たのは5時半。外は生憎の雨だったが、三田には何の不安も無かった。
 駅へつくころには、スーツはびしょびしょになっていたが、いつものようにトイレに入りドライヤーで30分かけて丁寧に乾かした。自然乾燥に任せるとわずかに染みが残るためだ。その分の時間も確保してある。髪型は傘で死守したために崩れていない。
 電車に乗ったのは6時半。30分で目的の駅にはつくので、約束の時間まで2時間の余裕があるが、駅からビルの間で濡れるので、ビルについてからスーツを乾かす30分は必須で、最悪髪型が崩れた場合にセットに1時間要することを考えて、念のためだ。
 ところが、そんな三田の計算が崩れたのは、目的地の二つ前の駅だった。
 電車のドアが開かないのだ。
 すぐにアナウンスがあった。『電気関係のトラブルのため、発車を見合わせております』と。
 10分経っても、30分経っても、ドアは開かず、電車は動き出さなかった。
 1時間経っても、まだ。
 バスに乗り換えればまだギリギリの時間だったが、何せドアは開かないのだ。
 1時間45分が経ち、やっと電車のドアが開いた。そして待たされていた客がドッと流れ込み、電車が発進した。
 他の乗客に押しつぶされながら、三田は考えた。
 この時間では、駅についてビルまで走った後、スーツを乾かす時間などありはしない。普段の三田なら、何の迷いも無く、1時間遅れようと2時間遅れようと、まず身だしなみを整えただろうが、今回は状況が違う。
 どうしてもこの引き抜きには乗らなければならない。
 電車が遅れているのは、ニュースなどで相手の耳にも入っているだろう。
 ならば、それでも間に合ったと言うことはプラス評価になるはずだ。
 駅についてドアが開いた瞬間、三田は傘も差さずに全速力で走った。
 スーツはびしゃびしゃになり、髪はぐしゃぐしゃになった。
 目的のビルの1階に入ったときには、約束の時間まで5分しかなかった。
 トイレによる時間も無く、三田は階段を駆け上がった。
 息を切らし、オフィスのドアをノックする。
 ガチャリ、とノブを回す音がして、ついでドアが開かれた。
 最初に出てきたのは初老の男で、少し驚いた顔をした後「こちらへ」と三田を奥へ案内した。
 案内された場所で向かいのソファーに座っていたのは、あのときの男だった。
「さぁ、座って」
 三田はソファーに座った。高級そうなソファーなので、濡れたスーツで座るのは気が引けたが、正直立ちっぱなしの状態が続いていたので座りたい気持ちが勝った。
 案内してくれた初老の男は、若い男の隣へ座った。
「君は、何よりも身だしなみを優先する男だと聞いた」
 男の目線が、三田の濡れたスーツを見た。
「なのにその格好はどうした?」
「電車が電気トラブルで止まってしまって、ギリギリだったのでここまで走ってきました」
「君は時間に間に合うために、身だしなみを整えることを犠牲にしたのか?」
「はい」
 自分の行動に間違いは無かったはずだ。もし遅れたら、きっとドアを開けてさえくれなかっただろう。
 今となっては、三田はそう信じるしかない。
「殊勝な心がけだな」
「ありがとうございま──」
「実に一般的な考え方だ」
 三田は唇をわずかも動かせなくなった。
「残念だが、今回の話はなかったことにさせてもらう」
 男はそう言って立ち上がった。
「!? な、何でですか!?」
「『君の能力を買ってのこと』だと言っただろう?」
「は、はい」
「君の能力は、類稀なアイデアもそれに含まれるが、一番はやはり、周りに流されず自分の信念を貫く力だ。どんな状況においても、身だしなみを至上とすることは、普通の人間にできることじゃない」
 男の顔には呆れが含まれている。
「君は普通じゃない人間だった。だから僕たちは欲しがった。けど君は普通の人間になった。だから僕たちはもう要らない」
「そんな……」
 三田は頭を抱えた。
「電車が、電車が遅れさえしなければ……」
「違うよ」
 男は嘲るように言う。
「電車が遅れたのは、僕たちが仕組んだからだ」
「……はい?」
「まぁ表沙汰になると、鉄道会社の立場が危ないだろうから言えないんだけど、わざと遅らせてもらったんだよ」
「何の、ために……?」
「勿論君を試すためだよ。君が自分の目標や欲望を目前にして尚、信念を貫けるのかをね」
 三田は唖然とする。人一人を試すにしては規模が大きすぎる、と。
「まさか2時間近く余裕を持ってくるとは思わなかったから少し焦ったけどね。まぁトランク二つぐらい上積みしたら、OKしてくれたし」
 トランク二つ。一体それはどれだけの額なのだろうか。
「それじゃあ、もう話は終わりだ。さようなら」
 初老の男と若い男は、気の抜けたような三田の横を通って、外へ出て行った。
 三田は、濡れたスーツが乾くまで、立ち上がることすらできなかった。






──────────────────────────


どうも、非魔神です。


朝、びしょ濡れになって駆け込んだ電車の中で


2分ぐらいで考えた話。


ちなみに三田士浪(みたしろう)=みだしなみ


  



感想お願いします。