恵まれない国で生活したい。

でも見方によっては与えられてる環境から"逃げ出す"ことのようにも思えて。

結局何も分からなくなった。
精神論(根性で何か努力し続けるべき的な思想)には行き当たりたくはない。

結局生きて何をしたらいいんやろう。
どういう価値観で生きればいいんやろう。

死んだら消えるだけ…
こんなに楽観的な観測はない。
死んだら消えるだけなら究極的には救われるってことになるんやから。
それなら悩むのは自由やけど根元的に悩む必要もないし、そもそも根元的に悩めない。

"賢きものは語らず"
ここから始まった。

賢きものも生きている。
無思想という思想でもよいが、生きているからには思想を持たざるをえない。
賢きものとて成長を遂げる前はさ迷い、考え、言葉の中に埋もれざるを得なかったはず。自分はここにいたい。

そう、悩んでるんや。
何に悩んでいるのかも分からない、これも悩み。

悩まなくなる。
これが悟りの本質なはず。
悟りなんて存在しないかもしれない。
悩まなくなるというのは考えなくなるというのに等しく、言語はもちろん意思の放棄にあたる。

11月末確かに悩まなくなる感覚に陥った。思考、意思は霧散していた。あれもこれも幻想だと観じていた。何も考えることなんてない、何も語ることなんてもちろんない。知るべきことも、するべきこともないと観じていた。
このまま死んでしまうと思った。死んでもいいのか。これが微かな意思やって、あの感覚を放棄してしまった。家族がいなくて、あのときいたのが学校じゃなくて、異性がいなければあのままの境地でいれたんかな、なんて後悔をする。

少しずれるけど、せっかく今思えばかなり賢者へと近付けたときに(語らなく考えなくなった)、異性と偶然近付いてしまったのが良くなかった。良い経験やったけど。
言うなれば粟稗で満足していたのに突然白米になったようなもので拒む必要を感じれなかった。そして白米に執着するようになってしまった。安定して白米が出てくるなら執着しなかったんやろうけど、不安定な食卓に魅了されてしまった。これは違うとはじめから分かってたのに。いつか白米が出続ける可能性を信じてしまった。

話を戻す。
悩めば悩むほど賢者から遠ざかる。
言葉が積もり積もっていくんやから。
人知れず悩むものはそうではない。
こうして文章をしたためるのはよろしくない。

思考がどんな影響を与えられるやろう。
文章にどんな力があるやろう。
そんなものはないんや、あの境地にいたとき感じていたように。
そう、どうでもいい、ここで転機が訪れる。
意味を持たせようとして文章をしたためるのではなく、どうでもいいと思いながら無心でしたためている、これなら問題がない。

恵まれない国で生活したいというのは実はこういう思いもある。
考えている暇などないのではないか、そう思うねん。恵まれない国でも悟りは生まれるべきだとするならば、悟りは思考の先に待っているのではないのだと、自分はそうあってほしいと願ってるねん。



そもそも自分には言葉、文字はもちろんのこと、紙や鉛筆、それどころかFacebookなどという高度なものまで与えられている。
これが自分の求めるもの(これを悟りと呼ぶことにしよう)に必要だとは思いたくないのだ、プロローグの最後に書いた理由で。
単純に、文章は自分の中に(体系的な形で)残るものではないからそう感じてるのかも知れへんけど。

自分の行動は常に他人に影響を与えてしまう。その価値的大小はあるけど、実はないかもしれない。人知れずどこかで座禅をしていようが、息を考えれば世界に関わっているし、やはり存在事態が世界に関わっているわけで、全てのものは無分別なままお互いに関わりあっている。

これが問題となるときがある。
ここが自分の言いたいことなんやけど。
例えば突然親が倒れてすぐに処置すれば助かるんやけど、その処置にはかなりの労力がかかるとする。

こんな緊急事態はいくらでも考えられる。
自分がとるべき行動はなんなのか、とるべき思考はなんなのか、正解などあるのだろうか。

いつ自分達はこんな責任のあまりに重い事態に巻き込まれるか分からない。
いや、それどころか、常にその可能性があるという点で、常に今というのは責任重大なのではないかと。
もしかしたら私の何気ない行動がとんでもない事態を遠く及んで引き起こしているかもしれないということもある。他にも色々ある。

こうなってくると分別知というのが幻想に思えてくる。影響や個々の項など、分別して知覚しているのがよく分からなくなってくる。
時間なんていうのも幻想かもしれない、こういう独立させて捉えるということが許せなくなってくる。こうなるともう思考は破綻する。

自分達は今を一つの行為、思考でしか通過できない。一つの可能性を選択していることになる。(いや、数えるべきことじゃないかもしれへんな…そうか書いてみて疑ってみて思った…まあええか)
それを選択する責任を負えているだろうか、負ってきただろうか。負えているわけもなく、負ってきたわけもなく。
責任なんてないのかもしれない。

こうして結局何も分からない。
分からないということも分からない。
もはや言葉が許せない、さきほどのように分別に疑いを持ち始めたら。
何も話せない、何も考えられない。
単語が許せなくなっているのだから。

これが自分が抱えてきた"わけわからない病"。

これはなかなかに深刻だ。
わけわからない病を踏みしめながら、つまり言葉が許せないのを踏みしめながら言葉を紡いでいくことにする。
これはなかなかに深刻だ。
1年間陥っていたし、今日もまたこうして陥っている。勉強などできるはずがない。ご飯すら食べれない。ただ息や睡眠は自然とするけど。
要するに"意思"が分からなくなり許せなくなるのだ。
思想、価値観が許されないなかで行動は何一つ起こすことはできない。勉強はもちろん、食べることさえも。

気分も落ち込んでしまう。
全く余裕などなくなる。
無明の中でもがき苦しむしかない。



そう。
きっと言葉に根元的な力はないんや。
きっと思考に根元的な力はないんや。

デカルトは言った。
"我思う故に我あり"
疑いようのないのは主体の存在だと。
これは誤りのように思われてきた。
といっても疑いようのないのは主体の存在以外にもあるだとか、主体の存在すら疑えるなどと言おうとしているのではない。
後者には近くなってしまうが、プロローグ2の理屈で言えば、主体という項、存在という項が既に幻想なのではないかと。何をもって主体という一点化を認可してしまっているのか、存在というものを他から切り離して認可してしまっているのか。

沈黙しなければならないのか。
語り得ぬことについては沈黙しなければならない、のか。
何か感じているのは誤謬だとして。
しかしやはりこれも意思としてそうするならば、自己矛盾に陥ってしまうのだ。
だからといって意思を放棄すれば死んでしまいはしないだろうか、ということにもなる。

しかしこんなことばかりは言っていられない。こんなことを考えているうちにも、今というのは責任重大で、時間は押し寄せてきて通過していく。仕事をしなくてもいい環境でなければこんなことは言っていられない。死を迫られる事態にあればこんなことは言っていられない。

ここで話が戻ってくる。
恵まれすぎているのではないか。
五体満足、親に愛してもらい、環境もあまりに整っている。奴隷などに生まれついた訳でもない。この21世紀の日本が不自然などと断じている訳ではない。これだって人間という自然の発展の結果であるのだろう。

しかし、自分はこの環境にいてはいけない気がしてるねん。だからといって二度と帰ってこないというのも拒まれる、親孝行という一点で。

結局何も分からない。
分からないということも分からない。
分からないまま今日もまたやってきた。

恵まれない国でひーひーはーはー言いながら生きてみたい。