※編集中。twitterよりコピペ。これをいじっていきます。
「思い通りになる(これを日常的には"なる"と呼ぶから話がややこしいが、できるという意味で使いがちなはず)ことなど一つもない」と突然気付いた。「いや、次の瞬間字を打てるのは思った通りやん?(思い通りになることもある)」と思いそうだが、そうではない。
例えば次の瞬間地震が起きれば、体は勝手にそれをやめる。これは私が、大きく¬私に依存しているということである。思い通りにできるのではなく、~なると"思って"これ通りになるorならない、つまり予測に過ぎないのだ。手を動かすことすら思い通りにできない。
これは"原理的に"なので全てそう(=思い通りになる(できる)ことなど一つもないな)のだ。
ここで「でも思い通りになる(予測的中)ことばかり(目的地に着けるとか)なので、そんな風に思わなくてもいいやん」と言われそうだが、私にはそうでないこと、先述の原理の方が重要なので、もはやそのようには思わない。そして、どこに私の思い通りにできるものがあるか、先程は私と¬私を立てたが、私などあるだろうか、と考えたときに、私は¬私のみによってしか成立していない(例えば身体の物質、環境による性格/能力etc)と気付いたときに、「本当に思い通りになる(できる)ものなどどこにもないな!」と思い、ますます先述の考えを強固にした。
人間、絶対にどうしようもないと本当に気付いたときには諦めがつくものである。砂漠に放り出されたら、(一歩ずつ歩むなり)諦めがつくものである。「思い通りになることなど一つもない」と気付いたとたん、人生の全てに諦めがつき、ぱっと晴れた感じである。
*1 私がいないとは言っていない、私という語はいくつかの意味で分類すべきで、その一つの私はいない。
*2 病になることも、我が身すら思い通りでない例である。
*3 "思い"も¬私に依存している。
そして事実をとりあげてわざわざ言うこれも執着なのである。「人間は息をする」などとわざわざ言うだろうか、言わない。「思い通りになることなど一つもない」が当たり前になっていないから、わざわざとりあげて言うのである。
わざわざ口にしている間は、まだ「思い通りになる」と一瞬でも妄想してしまっているということなのである。