韓国挺身隊問題対策協議会の調査
1924年:中国の吉林省(当時の満州)に生まれる。生後すぐに父が死没
1926年(2歳):母と共に平壌(現在の北朝鮮)へ移住
1935年(11歳):母子家庭で貧困のため小学校を中退
1938年(14歳):母が再婚、継父とは不仲
1939年(15歳):40円で売られて妓生巻番の養女になり、そこから妓生を養成する学校(妓生養成学校)に通う
1941年(17歳):卒業するが年齢が足りず妓生になれず、養父に中国ならお金が稼げるだろうと、養父に連れられ平壌から中国へ汽車で行く。北京に到着町中で日本軍将校に呼び止められ「朝鮮人だろ、スパイではないか?」と姉さんとトラックに乗せられる。夜中ついた空き家で将校に犯される。翌日、お姉さん共々慰安所に。場所はテッペキチン(鉄壁鎮?)村の中の慰安所で女は朝鮮人5人で経営者はいないが歩哨が隣の部屋にいる。但し、前述の1991年の韓国遺族会裁判の訴状では北京で軍人に拉致されたのではなく、鉄壁鎮まで養父に連れて行かれ、養父とはそこで別れたと異なる証言をしている。
「軍人達は自分たちでサックを持ってきました。1週間に1回後方で軍医が兵士を連れてきて検査をしましたが軍医が忙しいと来ない週もありました。軍医が来て少しでも異常があれば黄色く光る606号の注射を打たれるのです。」
「私たちのところに来る軍人は部隊の許可を得ているようでした。始めは軍人達が金を出しているのかどうかまったく分からなかったのですが、しばらくしてシズエから兵士達は1円50銭、将校達が泊まりの時は8円出さねばならないのだという話を聞いたことがあります。けれど私は慰安婦生活の間中軍人達からお金を受け取ったことはありません。」
2ヶ月後、近傍のより前線に近い慰安所に移動し、その1ヶ月後、歩哨の目を盗んできた朝鮮人の男が寝に来る、無理に頼んで夜中に脱出。男と中国で暮らす。
1942年(18歳):妊娠を機会に上海のフランス租界に定住
1943年(19歳):出産
1945年(21歳):2人目を出産、松井洋行という質屋を経営
1946年6月:上海から船で韓国へ帰国
1991年8月:慰安婦であったとする記者会見
1991年12月:日本国を提訴

