日本を性奴隷国家にさせた朝日新聞、社民党と共産党 -11ページ目

日本を性奴隷国家にさせた朝日新聞、社民党と共産党

吉田清治の慰安婦捏造記事「私の戦争犯罪」を検証せずに、16回も報道した朝日新聞。32年後に訂正しても、河野談話で、日本は性奴隷国家。

  日本に帰化した元韓国人の呉善花さんは小さい頃、親の世代から「日本人はとても親切な人達だった」と聞かされていました。

 ところが、学校に入学すると、先生から、「日本人は韓国人に酷い事をした」と教わって、すさまじいばかりの反日教育を受けたのです。それでいつしか、学校で教えられるままに、「日本人は韓国人に酷い事をした」という認識が、彼女の中で常識となっていました。
 彼女はその後日本に渡って、日本で生活するようになりました。すると、かつて親から教えられた「日本人はとても親切な人達だった」という言葉が、再び蘇ってきたのです。

日韓併合(1910-1945年)前の朝鮮。飢えと貧困にあえぐ人々。
1880年代のソウル南大門大通り(中心街)]
日本はこの朝鮮を建て直した。


日韓併合時代中、1936年のソウル、南大門通り。

 そこで、彼女は、日本と韓国の歴史について、もう一度勉強し直し、韓国で受けた反日教育は、非常に偏った間違いだらけのものだと知り、反日主義から抜け出したのです。
 彼女は後に、『生活者の日本統治時代』(三交社)という本を出版しました。日韓併合時代(1910年~1945年)を実際に体験した日本人や韓国人に話を聞き、纏めたものです。


 そこには、日本統治下の朝鮮を実際に体験した日韓15人の証言が書かれています。但し、ここでは朝鮮人の証言だけを紹介します。


朝鮮人と日本人は仲良く生きていた
 、日本による朝鮮統治時代を体験した韓国人の朴承復さんも、こう語っています。
 「学校では日本人生徒達からも先生からも、差別された事は有りませんでした。……今でも日本人の同期生達と会うと、彼らは韓国語で話したがります。……今なおそれほど親しくつき合っている日本人の同期生が何人もいます。 商業学校の恩師二人は、とても尊敬できる方でした。一人は松尾先生で、国語の先生でした。この先生は韓国人、日本人に関わりなく尊敬されていました。…… もう一人は横尾先生です。この先生は日本人生徒達からは嫌われていました。めちゃめちゃに厳しくて、過ちを犯せば決して許さない方でした。しかし、私はなぜか特別に可愛がってもらいました。色々な相談にものっていただいた大恩師です。


 卒業後、朝鮮殖産銀行に務めましたが、差別的な扱いを受けた事は全く有りません。……行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもしました。日本人も韓国人も区別なく、みんな仲良く楽しく遊んで過ごしました。
 日帝時代にそんな事あり得ないと言われるかもしれませんが、過激な人や極端な人達の一部での喧嘩や衝突はあっても、一般の日本人と韓国人のぶつかり合いなんか、見た事も有りません。…
 多くの日本人は、朝鮮人から家をちゃんと借りて住んでいました。日本人が勝手に韓国人の家を奪い取るなど、そんな事は無かったです。当時の日本人は本当に質素でした。……私自身は当時の日本人に対して悪い印象は全く持っていませんでした」

 また、ソウルの京城帝国大学で学んだ韓国人の閔圭植さんは、こう語っています。
 「私は個人的には日本人と仲がよくて、悪い感情はありませんでした。日本人が韓国人に恐怖を与えたとか、韓国人が日本人に殴られたとか、何か嫌がらせされたとかいった事は、個人的には見た事も聞いた事も有りません。……日本人が韓国人の家を奪って勝手に使うとか、土地や財産を搾取するとかいう事も、全く有りませんでした。神社参拝については、何かの日には学生全部が連れて行かれました。行かなくても別に厳しい文句は言われませんでしたが」

 また、日韓共同映画『愛の黙示録』を作り、3000人の韓国人孤児を育てた日本人・田内千鶴子さんの生涯を描いた監督・金洙容さんも、こう語っています。
 「農場の日本人達はとても勤勉でした。日本人は早くから科学的で先進的な農法を使っていました。……日本人の経営する農場には、韓国人達もたくさん働いていました。日本人は日当をきちんと計算して渡してくれました。彼らはとても礼儀正しく、日当を支払わない様な事は先ずしません

 また、新義州の中学や高校に通っていた李萬甲さんは、こう語っています。
 「朝鮮人は私一人でしたが、日本人の同級生みんなに親切にしてもらいました。……日本人の先生には立派な方がいらっしゃいました。…… 創氏改名は昭和15年からのことでした。ほとんどの人が変えていましたね。……しかし、官庁に務める人でも、変えないからといって首になるようなことはありませんでした。…… 日本人が韓国人の生活を侵害するとか、略奪するとか、そんな類の事は日本人は全くしませんでした。日本人は法に反することをしない様にと、非常に気をつけていました


 新興工業都市、興南(日韓併合時代、1942年)
日本人も朝鮮人も協力しあって働いていた

 

日本人は不法なことをしないよう気づかっていた
 従軍慰安婦問題に関し、阿部元俊さんは、こう答えています。
 「日本人が朝鮮の田舎に行って、若い娘たちを奪ってきたと言われますね。そんな事はあり得ないです。もしそんな事をしたら誘拐犯ですし、懲役刑を受ける事になります。いや、法律の問題以前に、村人達に滅茶滅茶にやられてしまいますよ。… またそんな事があれば、必ず私の耳にも入ってきた筈です。でも、そんな話も噂も一度も聞いた事が有りません。これはね、当時朝鮮に住んでいた日本人の名誉にも関わる事です。……警察署長も朝鮮人でしたし、裁判所の判事、検事などにも朝鮮人がいました。朝鮮総督府では、局長、部長、課長にも朝鮮人がいました。もちろん警察官は、朝鮮人だろうと日本人だろうと同じ権限を持っていました。 そういう状況下で女狩りが堂々と行なわれ、一人として問題にする者が居なかったなんて、有り得ない事です。全人口の一%に過ぎない日本人が、そんなに悪い事をして安全に生きられた訳が無いんです」
 阿部さんは、従軍慰安婦問題というのは、戦後になされた歴史捏造に過ぎないと断言している訳です。阿部さんはまた、戦時中の徴兵についてはこう語りました。
 「昭和18年に、学徒動員となり、日本人学生たちは強制的に呼び出されて戦地に向かいました。……そんな時でも、大部分の朝鮮人は戦地に行く必要がありませんでした。正直な話、朝鮮人が羨ましかったですよ。『これは差別じゃないか』と言ったりもしたもんです。
 朝鮮人までが徴兵される様になったのは、昭和19年4月からの事とでした。……自ら志願して戦地に行った朝鮮人達もたくさん居ました。……しかし志願ではなく戦死した人達もいますし、……それを思うと本当に心が痛みます」

 以上、いろいろな方の証言をみてきました。いずれも、日本統治下の朝鮮を実体験された方々です。
 これらの証言から見えてくるものは、かつて日本人と朝鮮人が手を取り合って生きていた時代があった、という事です。庶民レベルでもごく普通に仲良くつき合っていました。また朝鮮総督府内でさえ、机を並べて日本人と朝鮮人が共に働いていたのです。
 日本が朝鮮を支配した三六年間において、両者の間に若干の衝突事件はありました。しかしそれらは極めて散発的なものでした。規模も小さいものでした。日本統治下の台湾に比べれば、朝鮮の反日運動は極めて少なかったのです。
 全体的にみれば、日本統治下の朝鮮において、日本人と朝鮮人の間には良好な関係が築かれていました。勿論、当時、日本と朝鮮は一体でしたから、戦争末期には朝鮮国内でも徴兵や徴用(労働に呼ばれること)が行なわれ、苦痛を感じた者たちも多くいました。
 しかし、それは日本人も同じだったのです。日本と朝鮮は運命共同体になっていました。
 だからこそ、朝鮮で徴兵制が敷かれる以前にも、朝鮮人の中には自ら志願して兵士となり、日本人と一緒に敵と戦おうという人達が少なくなかったのです。その朝鮮人志願兵の倍率は、昭和17年にはなんと採用数の62倍にも達し、非常に狭き門でした。
 それほど多くの朝鮮人が、志願してまでも日本人と共に戦いたいと願ったのです。彼らの中には特攻隊の隊員となって散っていった人々もいました。このように朝鮮の人々と日本人が共に生きていた時代が過去にあったことを思うと、私は感無量の思いです。
 戦争末期の朝鮮は、たしかに苦しい時ではあったでしょう。しかし、日本の内地も同じでした。いや実際は、日本の内地より朝鮮の方が遥かに恵まれていたのです。
 何故なら日本の内地は、アメリカ軍の爆撃を受けて多くの都市が破壊されました。しかし朝鮮は、そうした攻撃を一切受けなかったからです。また、戦争末期の朝鮮の物資欠乏や苦しみでさえも、かつての李朝時代の朝鮮の悲惨さに比べれば、遥かに恵まれたものでした。