駿河の国で寄り道(38)「矢倉神社」(ヤマトタケルその8) | れいんぼうの部屋

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釣り以外の記事の方が増えています。

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」での前回は「ヤマトタケル」にちなんだ地「天皇原」周辺を訪ねた。

 

「ヤマトタケル」は各地にいろいろな伝説が伝えられていて、駿河の周辺には関連した見どころが多い。

 

 

今回は清水区にある「矢倉神社」を訪ねる。

 

清水の「秋葉山」の200mほど東に矢倉神社がある。
(「秋葉山」は真言宗醍醐派の秋葉寺。)


〇矢倉神社入口にある鳥居


 神社の入口に「猿田彦大神」の石碑があって説明書きが立っている。
<猿田彦命と天宇受売命>
 天照大御神の詔により、ニニギ尊が高天原から日向の高千穂峯に天降られる神話「天孫降臨」の際に、天と地を結ぶ分れ道の辻で御一行を出迎え先導を申し出る異貌の国神が猿田彦命です。
 応対した天宇受売命は、これにちなんで猿女の君と名乗ることになり宮廷の神事で、演舞を勤める民族の始祖となりました。
 又、猿田彦命は旅行安全、交通安全の神として尊崇されています。
 なお猿田彦命と天宇受売命の両神は矢倉神社境内社の八雲神社に御祭神として祀られています。

 

 

〇石鳥居


石鳥居が入口に構えている。

説明があるので読む。
<石鳥居の由来>
奉納 慶応4年辰年正月吉日(1868)
伊徳丸 治郎七
世話人 綿屋伊兵衛
江戸時代末、伊徳丸に乗り込んでいた治郎七は、突然の嵐に遭難しました。

治郎七は海上から見慣れた矢倉神社の森を遠望し、大神の御加護を祈りながら懸命に船を操り一命を得ました。
事後、矢倉の大明神の御威徳に報わんと石鳥居を奉納しました。

 

〇矢倉神社の本殿

「本殿」由緒を読む。
祭神 景行天皇・日本武尊・神武天皇・蛭児神・事代主命 外8柱
例祭 10月17日、神門 五三桐、神事 神輿渡御、氏子 2000戸、崇敬者 400人
由緒沿革
 当神社の創建は仲哀天皇の御代、庵原国造意加部彦が日本武尊、景行天皇を始めてお祀り申し上げました。
 景行天皇第2皇子日本武尊が東国の蝦夷が叛いたのでえ御東征の際、当地方一帯に軍営を布かれ給いひ此の地での兵站部や武庫を置かれた遺跡と伝えられています。
 里人その遺徳を慕ってお祀り申し上げました。
 村上天皇の天暦2年に藤原匤房卿は神武天皇を合祀し奉りました。降って天正18年、豊臣秀吉小田原出兵の砌、太刀、玉石を献じたとも伝えられています。
 駿河国諸郡神名帳に従5位上矢倉地祇とあり古社であります。昭和9年神武天皇御東遷2600年祭に当って宮崎県知事より幣帛料の奉納があり、同じく昭和15年紀元2600年祭に当って静岡県知事の幣帛供進使参向がありました。
 尚、当社相殿の事代主神は古くより信徒の区域が広く境内社稲荷神社は開運の神として特殊の多くの信仰者があります。
  資料  昭和13年  徳富蘇峰氏が神額を奉納   矢倉神社社務所

 

〇矢倉神社

 

〇日本武尊の像が立っている。

このヤマトタケル像は「草薙神社」「焼津神社」と同じ「漆畑廣一」氏の昭和63年製作と書かれていた。

 

矢倉神社の創建はヤマトタケルの子とも言われる「仲哀天皇」。

庵原国の国造だった意加部彦命が日本武尊・景行天皇を祀ったことから始まる。

など多くの伝承があって、ヤマトタケルを語る上では欠かすことのできない神社っだった。

 

 

〇矢倉神社の社務所


矢倉神社には「新開稲荷社」や「八雲神社」が境内社として建っている。
 

〇八雲神社

説明看板を読む。
<八雲社御祭神>
 須佐之男神(すさのお)厄除
 櫛稲田比売神(くしいなだ)夫婦円満
 猿田彦神(さるたひこ)旅行安全
 天宇受売神(あめのうぶめ)芸能開運
 弟橘比売神(おとたちばなひめ)日本武尊の妃
 吉備武彦命(きびのたけひこ)日本武尊東征軍の将(庵原の君)
 大伴武日連命(おおとものたけひむらじ)日本武尊東征軍の将


 

境内には大木が多く生い茂っているが、このクスノキがことさら存在感があった。

 

〇クスノキ

ヤマタノオロチのような大木。

 

今日は「ヤマトタケル」の東征の時に野営した場所にある「矢倉神社」を訪ねた。

 

 

駿河の国には「ヤマトタケル」に関わる多くの伝説が有るので、ゆかりの地を巡る。

 

 

次回「駿河の国で寄り道(38)」は「廣野神社」「軍神社」「菖蒲神社」。