「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。
***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。
https://stroly.com/users/9756472369/
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上の古地図のリンクを開いて、今回から「蒲原宿編」を選択して散歩する。
前回は「由比宿」周辺を巡った。
今回は「蒲原宿」に入る。
「神沢川」を渡る橋を過ぎると蒲原地区。
この先、旧国道1号線(県道391)と合流する。
東名高速道路の高架をくぐる手前を北へ曲った山の麓に海寶寺がある。
〇海寶寺
海寶寺の本堂は坂か階段を登った所にある。
由緒書きがあったので読む。(概略)
沿革
臨済宗京都妙心寺派。「神澤山海寶寺」と称し、開山は天栄澤和尚大禅師で開創年代は不明。
鎌倉時代の作とされている塔が保存されている。
室町時代には京都より公家が来山した記録がある。
鎌倉時代の作とされている塔が保存されている。
室町時代には京都より公家が来山した記録がある。
り、江戸時代に一度全焼し約50年間建物のない時代もあったといわれています。
当寺歴代住職三浦海寶院の読経によって蒲原城主北條新三郎外700余名の兵士を慰めた。
当寺歴代住職三浦海寶院の読経によって蒲原城主北條新三郎外700余名の兵士を慰めた。
旧東海道へ戻る。
東名高速道路をくぐるとしばらくは県道を真っ直ぐ進む。
東名高速道路をくぐるとしばらくは県道を真っ直ぐ進む。
古地図にも描かれている水路「八木沢川」を渡る。
間もなく「堰澤川」を渡り、その上流に臨済宗妙心寺派の「霊光院」がある。
古地図にも旧字体で書かれた「霊光院」が描かれている。
この辺りは古地図に「堰澤村」とある。
旧東海道に戻り、東名高速道路から600mほど東に蒲原駅がある。
東海道線のいなか駅。この辺りまで「堰澤村」だったようだ。
古地図で「中村」の次は「法師沢」を越えると「小金村」に入る。
〇蒲原宿西木戸
駅から北上して山裾に「関口神社」があるが、古地図では「住吉社」と呼ばれていたようだ。
古地図で「関口神社」を過ぎると「中村」に入る。
「中村」は現在の住所では「蒲原中」という町名になっている地域。
中村にあった「法泉寺」は今は無く、どこにあったのか分からなかった。
「貞心寺」は今も「蒲原中」に「安谷山 貞心寺」という曹洞宗の寺院として現存している。
古地図で「中村」の次は「法師沢」を越えると「小金村」に入る。
現在は「蒲原小金」。
古地図に描かれている「第六天」を探してみる。
「上山神社」の祭神が「オモダル」「アヤカシコネ」ということなので関東を中心に多く見られる「第六天」と同じだ。
「第六天」の隣に「白泉寺」が描かれている。
現在も「修福山 白泉寺」という曹洞宗の寺院がある。
この平凡さ故に通り過ぎてしまったので見どころの写真を撮っていなかった。
今度、蒲原へ出かけた時に神社仏閣などの写真を撮ることにする。
この西木戸の案内碑から左へ曲がると旧東海道の趣きある街道になる。
〇西木戸の案内板
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20221224/16/rai-trout/b9/73/j/o0320021415220374756.jpg?caw=800)
蒲原宿案内板の横に立て札のような西木戸についての説明書きがある。(概要)
<西木戸・茄子屋の辻>
宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれる所にあったが、1699年の大津波の被害後、蒲原御殿があったとされる現在地に移動した。
この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおきた。1653年に高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列乱闘が起き多くの犠牲者が出た。
当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養した。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されている。
〇蒲原宿の案内板
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20221224/16/rai-trout/2a/4d/j/o0320021415220374918.jpg?caw=800)
<蒲原宿について>
蒲原宿は、江戸から37里(148km)品川宿からかぞえて15番目の宿場。
東海道が整備された当初の宿場は現在のJR東海道線の南側にあったが、1699年の大津波により大きな被害を受け、1700年に山側に移転した。
<西木戸跡>
蒲原宿の西の端にあり「西見附」ともいわれた。見附の入口に柵を設けたことから「木戸」ともいわれ、東西木戸の間を「木戸内」と呼んだ。
<浦高札場跡>
海に近い蒲原宿は、蒲原の津(港)を経由する海上交通が盛んだった。
〇蒲原宿の案内板
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20221224/16/rai-trout/2a/4d/j/o0320021415220374918.jpg?caw=800)
<蒲原宿について>
蒲原宿は、江戸から37里(148km)品川宿からかぞえて15番目の宿場。
東海道が整備された当初の宿場は現在のJR東海道線の南側にあったが、1699年の大津波により大きな被害を受け、1700年に山側に移転した。
<西木戸跡>
蒲原宿の西の端にあり「西見附」ともいわれた。見附の入口に柵を設けたことから「木戸」ともいわれ、東西木戸の間を「木戸内」と呼んだ。
<浦高札場跡>
海に近い蒲原宿は、蒲原の津(港)を経由する海上交通が盛んだった。
浦高札は海船、川船など船舶一般の取締りの「おふれ書き」で、これを掲示した所が「浦高札場」です。
<高札場跡>
柵会館の前にあったといわれる蒲原宿の高札場は、幅2間5尺奥行4尺5寸高さ1丈1尺。
<御殿道>
徳川家康が造営し、秀忠、家光の時代まで休憩所となった「蒲原御殿」。
<高札場跡>
柵会館の前にあったといわれる蒲原宿の高札場は、幅2間5尺奥行4尺5寸高さ1丈1尺。
<御殿道>
徳川家康が造営し、秀忠、家光の時代まで休憩所となった「蒲原御殿」。
御殿の位置は明らかではないが、桜の名所「御殿山」宿内に残る「御殿道」に名前をとどめている。
<本陣跡>
蒲原宿の本陣は、江戸時代の中頃までは、東本陣(多芸家)と西本陣(平岡家)の2家でつとめていた。
<本陣跡>
蒲原宿の本陣は、江戸時代の中頃までは、東本陣(多芸家)と西本陣(平岡家)の2家でつとめていた。
宝暦年間に東本陣の多芸家が絶え、以後幕末まで平岡家が本陣をつとめた。
<木屋(渡辺家)の3階建ての土蔵>
木屋の屋号をもつ渡辺家は、江戸時代末期、蒲原宿の問屋職をつとめていた旧家。
今も残るこの3階建ての土蔵の中には、江戸時代の宿場の貴重な資料が保存されている。
<問屋場跡>
問屋場(といやば)とは幕府の荷物のとりつぎ、大名の馬、人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物のとりつぎをした。
<木屋(渡辺家)の3階建ての土蔵>
木屋の屋号をもつ渡辺家は、江戸時代末期、蒲原宿の問屋職をつとめていた旧家。
今も残るこの3階建ての土蔵の中には、江戸時代の宿場の貴重な資料が保存されている。
<問屋場跡>
問屋場(といやば)とは幕府の荷物のとりつぎ、大名の馬、人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物のとりつぎをした。
<「蒲原夜之雪」記念碑>
歌川(安藤)広重描く、「東海道53次シリーズ」の中でも「蒲原夜の雪」は最高傑作といわれている。
広重がこの絵を描いたと思われる場所の近くに昭和35年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になったのを記念して、碑が建てられた。
<東木戸跡>
東木戸跡には、当時の「常夜灯」が残っている。
歌川(安藤)広重描く、「東海道53次シリーズ」の中でも「蒲原夜の雪」は最高傑作といわれている。
広重がこの絵を描いたと思われる場所の近くに昭和35年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になったのを記念して、碑が建てられた。
<東木戸跡>
東木戸跡には、当時の「常夜灯」が残っている。
東木戸のすぐ西側の所で、敵の侵入に備えて見通しがきかないよう道路がわずかに「鉤の手」なっている。
<一里塚跡>
蒲原の最初の一里塚は、元禄12年の大津波で流出し、現在の一里塚は宿場の移転にともなって移されたもの。
蒲原の最初の一里塚は、元禄12年の大津波で流出し、現在の一里塚は宿場の移転にともなって移されたもの。
当時のおもかげはなく、今は小さな祠が残っている。
今回は「蒲原宿」の入口まで来た。
この「西木戸」にある説明看板で「蒲原宿」の見どころがよくわかる。
今回は「蒲原宿」の入口まで来た。
次回は「蒲原宿」の核心部に入る。
*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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