大学生の就活で会社に求める条件が安定とか福利厚生とか言ってるけど甚だ理解に苦しむ。 
結局のところそんなものは幻想に過ぎないのではなかろうか。大昔の人は狩猟採集を元に生活をしておりその時は安定などなかった。その後農耕の発達と食料の備蓄が可能になったことで、人類に余剰と言うものが与えられ、食料に苦しむ事が減った。しかしどの年でも安定して収穫できるわけではなく飢饉に陥る年も多々あった。そうなれば食料を求めて略奪が生じ、少なくとも今まで通りの生活つまり安定した生活など営めなくなる。 
  
食料がなくなれば奪うしかない。潤沢にあったとしたらそれを支える機構を死守する為に軍事力を高める為武術を身につけたり、ガバナンスを整える必要がある。つまり人間はかつて1日1日生きるのが必死だったはずだ。 
いつ来るか分からない飢饉であったり、外部からの侵略。 それを阻止する為に命を燃やして力をつけ、統治機構を整え、時に祈りを捧げた。 例えそれが外部的要因からの理不尽な要請であったとしても彼らにとってはそれら1日1日が命に煌めきを与えるような、みずみずしい輝きをもったものであったと私は勝手に考える。
そして、就活の話に戻るが将来への安定とか福利厚生とか高収入は幻想だと言い切れる。そもそもなぜ多くの人はそれを求めるのか。答えは意外と簡単で、分からない事を恐れているだけなのだ。将来なんていう漠然とした、ひょっとしたら無いのかもしれない事に対し人は恐れる。現状維持の願望であったり偏在する幸福観(結婚すれば勝ち組だとから2LDK位の家に住めれば上出来だとか)...。ある一定の妥当性を持った結果、人様に見られて恥ずかしない生活。玄関先でのご近所さんとの会話で自分側にある一定の土俵を与えてくれるような。自分に謙遜させてくれるような。会話に落ち着きを与え、心地よい旋律を奏でてくれる五分五分の関係。これが皆欲しいのでは無いのだろうか。その為に見えない将来へ向けた、何が起こるか分からないから、それらの実現性を担保してくれそうなレールを敷くべく、一生懸命勉強し、いい大学に入り、所謂の大手に就職する。 そして、これこそが至高の幸福につながるものだと洗脳されてきたと思う。
しかし本当にそうなのだろうか。 
本当の意味で(自己に内面化され感覚にまで入り呼吸のように当たり前になるくらいまでに)別に世間体なんてどうだっていいみたいな考え、他人の目なんて知ったこっちゃないといった概念が流布するのはありだと思う。
もしその洗脳に騙されているのではなく自分の中の声に従い、やりたいことに従い、妥当性とかを抜きに(何となく中卒じゃあどうしようもない、周りが行ってるからとかではなく)自分の意思で考えて行っているのなら別にいいと思う。その場合レールに乗っていることと同質的なことをやっていてもまるでその意味内容は違う。  
しかし、そうではなくとりまそのレールに乗っておけば幸せになる事ができると思っている人は考え直してみるのもありだと思う。 
そもそも幸福がなんなのかとかは僕にもよく分からない。ただ、やりたいことをやれている今は例え一人ぼっちで金がなく恋人がいなくても非常に楽しく充実していると感じる。 周りとは明らかにずれた大学生活だけど今の1日1日はやりたいことをやって魂を燃やせていると思う。(孤独な分他人の目とかも気にならないから余計に良いのかも分からない。)   
この感覚は少し原始的なものだと思う。何百年何千年も前の取り敢えずその日1日を生きながらえる事が出来ればそれでいいって言う。昔の人が好きでこの生き方をした訳では無いと思うが、踏みしめるように生きるこの感覚はまるで生きている
と実感できる。骨髄にまで染み込んで来るような全身全霊をかけてやっているこの感じは最高である。 
将来というのは引かれているものではない。確かに高度に発達したこの現代文明の中においては、古代のような原始的な生活をしていく事は難しいと思う。しかし、目的や性質は違うが、自分のやりたい事を環境に干渉されることなく全てを賭してやっていく事は出来ないことも無いと思う。先の事は分からないが、今の自分の1日1日を紡ぎ出し続け、純真で無垢な形にならない思いを、下らないロマンに馳せ続け日々寿命を削る。生き急いでいるのか死に急いでいるのかも分からないが、唯ひたすら直感的に野心を帯同し頭から突っ込んでいく。もしその先の誰にも穢されない聖域にまで辿り着ければそこには世間体や玄関先の景色なんて一切ないユートピアのような景色が広がっているのかもしれない。
僕は直感的にそれこそが幸福なのではと思う。
そしてこれこそが現代版古代人の幸福であると考える。