PAPER CHASE

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文学少年の書物机

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過剰に特別視したこの期間、いろいろ経験したようで、実は、(いや、したのかもしれないが)何一つ変わっちゃいない、自分に悶々としながら矢継ぎ早に課される論文の締め切りに追われる、そんな毎日。

他の誰かにあげれる貴重な情報なんてものがない、そしてそれがあると言える勇気もなかったから、日々の切れ切れな記録は日記にとどめてきたけど、そろそろ周りを意識しながら振り返る日記書いてみようかと。当分は公開しないけれども。



アメリカでの生活を終えようとしている今、ざっくり振り返ると、'自分を変える'ってのは難しいことだったってこと。


多分、外部のモノへの期待が大きかったんじゃないのかなあ、と。

この前アメリカ リアリズム文学の授業中、先生が言ってたんですわ。 リアリズム小説ってのは、人間への外部からの影響を第三者視点から捉えたお話なんですよって。
'ここは気候が厳しいよー。'だったり'経済が安定しないよー。'だったり'周りのお金持ちが羨ましいよー'だったりね。こういった、外的変化に自然と人間が'変化'というかたちで呼応する。と

そこでさ、'自分を変える'っていう、このあまりにも陳腐な言葉の意味を考えてみると、これが指すのは、明らかに'自己の、内面への期待'だったりすると思うの。
じゃーそもそも、その変化の理由を外部(external、英語使っちゃった。かっこいー)のモノへ求めるのはお門違いだったんじゃないかと、こうなるわけですわ。

考えてみれば僕らの生活は、絵画で言えば印象派的であり、文学でいえば純文学的であり、パッと光ってネガにくっきり焼き付くような類いのもんじゃないわけだから。気分が乗らなきゃ晴天も皮肉に映るわけだし、良い気分の時なら、シンクに貯まった洗い物目の前に'しゃ-ねーな'って腕まくりするわけ。そんな不安定な自己に反映されてそれらは成り立ってるわけだから、そもそも自分の変化は自分じゃ望めないってーことになると思うんですよ。

つまりは変化は常に結果としてしか存在できないってことだと。少なくとも僕にとっては。

この自己考察をいやらしく演繹するつもりはありません。僕の日記ですからね。まあ小金拾いのもじゃもじゃ脳科学者さんよりかは、真摯に自分に向き合えてると思うんです笑 羨ましいんですよ。'脳科学的には~'って枕詞で相手のフムフム...が聞けてることが)

とにもかくにも、この日記は、なにも考えなかったところでどうせ年をとるなら、考えながら死んでいきたいな、というスタンスのもとこの先も綴っていこうかなと思ってます。