秋山きえのブログ「それでも、来た道」

秋山きえのブログ「それでも、来た道」

目に見えない世界・宇宙・霊的真理について実体験を元に無料でブログ公開しています。設定変更と女性性開花とスピリチュアリズムで魂が求める運命を自らで創ろう♡

私はオンラインサロンを運営している。

事故時の生々しい詳細も報告していたりする。


少し前には、サロンに

「死生観〜メメント・モリ〜」という

コラムを投稿したばかりだった。

 

この死生観が、

そのまんま今に繋がってるなぁと感じた。

 


 

実は、事故が起きた時・・・

 

私のInstagramの「ノート」に

まさにその死生観がバキバキに反映されていた。

 

 

ただ、状況的にとんでもない内容だった。

 

 

 

どんな事だったかというと

 

 

すべて逆。

生は悲しみ、死は喜び。

それが本当の世界。

 

 

 

もちろんこれは、
死を軽く見ているということではない。


悲しみを否定したいわけでもない。

これは、スピリチュアリズム(霊的真理)を軸にした死生観なのです。

現象としての悲しみや喪失を、
軽く扱いたいわけではありません。

ただ、霊的な世界を軸にして見ると、

何をどうしたってこのような理解になるのです。



わかる人はわかるよね。


 


事故が起きた時、

「事件」と「事故」、

両方から捜査が行われていた。

 

 

私ともう1人の友人は、翌日までずっと

事件性の有無も含めて
事情を確認される立場として

根掘り葉掘り、「そんなことまで?」を

事情聴取をされていた。

 

 

 

当然ながら、職業を聞かれた。

 

 

 

 

うっ・・・

 

 

私の職業って・・・

 

 

 

な、なんて答えたら・・・いいんだ・・・?

 

  

「自営業です」と答えるも、


「どんなことをされてるんですか?」とまた聞かれる。



 

とりあえずそこで

「オンラインサロン主宰してます」

と答えた。

 

 

だいぶ社会的信用に乏しい感じがして、焦りが湧いた。



セミナー講師です、とでも

言えば良かったとひどく後悔した。


でも「元霊能力者です」なんて

答えるよりかは遥かにいいはずだ。多分。

 

 

そうやって、

職業、素性を調査されながら、

 

 

「もしもいま私のInstagramのノートを刑事さんがみつけたら、、、」

 

 

とヒヤヒヤした。

 

 

そんなの見られた日には、

正式に疑われる気がした。

 


 

結果的に、私たちへの疑いは

証言と状況証拠の一致によって

翌朝には晴れたのだが、

 

もしも刑事さんが私のあのつぶやきを見ていたら

もうちょっと長引いてたのかもしれない。

 

 

社会性を意識すると、

非常識になる私の価値観。死生観。

 

 

だけどそれを軸に生きているから、

あの時も今も、

私は決して「不幸」にはなりようがなかった。


何があっても幸せでしかいられないと

はっきりわかった。



 

すぐに心の落ち着きも取り戻したし、

「自分のことを責めないでください」と

擁護される前から起きたことを受け入れていた。

 


信じがたい気持ちもありつつ、

幻ではなく

現実をまっすぐにみていた。


気も狂わなかった。

 

 

直接会って話している方ならわかると思うけど

その日も翌日も泣いてメソメソと

悲しみに打ちひしがれ続けたり、

心を病んだり、

延々とタラレバの不毛話をすることもなかった。

 

なんなら彼女が待望していた焚き火をして

少しばかりあそんでいたくらいだ。


 

でもそれはやっぱり、

前々からずっと伝え続けてきていた

【死生観】ありきだったんだと思う。


 

 

そんな死生観について

自在オンラインサロンに投稿した

「死生観〜メメント・モリ〜」というコラムを

ブログにも載せることにします。


 

色々遡ってみてたら、他にも

身内が帰幽した際に「〇〇で良かったね」とか

 

世間一般では不謹慎極まりないことを

ど真面目に伝え続けてました。

 

 

 

こんなことを事故前に書いているなんて、


なんだかやっぱり、

こうなることを魂は全部知ってたんだろうなぁ。

神様のシナリオだったんだなぁ、と思う。

 

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私は、毎日朝起きた時はどちらかというと

「まだ生きてる」と感じる。


そして少し先の未来に
楽しみな予定が発生した時も
「その日が来る前に死んでるかもしれない」と思う。


それくらい、
今日生きていることは奇跡であり、
明日生きている保証もないと思っている。


誕生日の時も、同時に誰かの命日を想う。

 


誰かの誕生日は誰かの命日で、

「また明日ね」
「また今度!」

これほど保証のない約束などないと思っている。
だから「また」が起きると自然と嬉しくなるのだ。



夫が出かけて行く時も、
「これが最後の別れになるかもしれない」とも思う。


だからどれだけ忙しくても
必ず顔を合わせて「いってらっしゃい」と
見送るようにしている。


私自身が旅に出る時もそうで、
自分が生きて帰宅する保証はどこにもない。


だから笑顔で「いってきます」と伝えて家をでる。



死とは、これぞ究極に
「ルートはおまかせ」でやってくるものである。

それをいつでも受け入れられる様に
精一杯生きようと思う。

でも精一杯生きるだけだとそれは疲れる。

死を遠ざけようとして“今”を消耗してしまうから。


死に怯えて苦しむし、
それを乗り越えるためには
アドレナリンを出さないとやっていけないよね。


その解決方法は簡単で、
「メメント・モリ」に生きればいいだけなんだ。


死を前提にして今を選ぶと、
無理に頑張らなくても自然に今を大切にできる。


いつ死んでもいいと思えるように
今できる選択をして生きるのが
私の思う、メメント・モリ。



今も死ぬ可能性がありながら
尚生きている今は
本当に奇跡でしかない。


「どう死ぬのか」は
死ぬ時までわからない。


病気をしてても、病気で死なずに

餅を喉に詰まらせて死ぬ人もいる。


だけど、「死に方」はわからなくても
いつか必ずその日がやってくる。


そのルートは、指定はできない。


宇宙…というか、
神(自分)がすでに
そのシナリオを描いているので、
個の私たちには選択肢はないのだ。



それを受け入れて生きることもまた
「ルートはおまかせ」。


この死生観を軸に生きていれば、

いざ、死が隣り合わせになった時も
少しは安らかでいられるのかもしれない。ね。


 (自在サロンコラムより抜粋)

 

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私は私なりに、

あの場にいたという事実を引き受けている今☺️