カメラ 津山駅前 [岡山]

 
箕作 阮甫
みつくり げんぽ
1799 1863
(寛政十一年~文久三年)


 

 

どこかでお名前を目にしたような気はするのですが…
スミマセン、存じ上げない方でした汗
早速調べてみたら、津山藩医かつ蘭学者とのこと。
ほほぅ、頭の良い方なのですねぴかっ!
 
 
曾お祖父さんからのお医者さん家系で、お父さんの代に町医者から藩医に取り立てられたそうです。
阮甫さんは、四歳でお父さん、十二歳でお兄さんを亡くし家督を相続…
 
十二歳で家督を相続!?
 
わぁ~なんてこった sss
十二歳の肩に重くのし掛かる重圧…これは大変だったろうなぁ
その後、十八歳で京都へ向かい漢方医として修行した後、文政五年(1822)ついに藩医に!
頑張ったのですねぇキラキラ
 
 
現地の説明板によると、この像は
「西洋の学問を志した阮甫が、文政六年、藩主に随行して初めて江戸へ旅立とうとする、立志の姿である。」
との事なので、藩医になった翌年のお姿みたいですね。
真っ直ぐ見つめるその目には、遠く江戸、そして遙か先までも映っているのかもしれませんね(°∀°)b
強い意志が感じられる素敵な像だと思います!
 
 
江戸に移ってからも大活躍の阮甫さんに色々なことが待ち受けていました。
(以下、時系列ごちゃごちゃです)
  • 蘭学を修め、天保五年(1834)に江戸八丁堀に医院を開く。
  • しかし、火災に遭い病弱もあって医院は断念。
  • 伊東玄朴名義で「医療正始」「坤輿初問」などを訳述刊行。
  • 日本で最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、様々な分野の訳述書を残す。
う~ん、波乱万丈ですねぇ。
 
 
歴史の有名人とも関わりがありました。
  • 蘭学を学ぼうと門を叩く勝海舟に対し「性急な江戸人には蘭学は向かない。拙者も忙しく、そなたに教えている暇がない」と入門を断る。
  • ペリー来航時に、米大統領国書の翻訳にあたる。
  • ロシア使節のプチャーチンが長崎に来航。対露交渉団の一員として長崎へ。
他にも
  • 安政五年(1858)お玉ケ池種痘所設立の際、先頭に立って尽力。

以前たまたま歩いていた道に「お玉ヶ池種痘所跡」の碑を見つけたことがあったので、なんだか嬉しい史実でした。

  • 種痘所設立人の名簿にて、筆頭に名を連ねる。
手塚治虫先生の『陽だまりの樹』種痘所設立シーンを確認したところ、確かに一番初めに「箕作 阮甫」の名前を発見!
わ~(´∀`)キラキラキラキラキラキラ
歴史を勉強していると、点と点が繋がって線になることが多々あって、その度に感激です。
これも歴史の妙味なのでしょうね。
 
そんな阮甫さんが、十四歳頃まで過ごした生家が津山市西新町に現存とか。
次回、津山へお邪魔した時には、ぜひ立ち寄りたいと思いますGO

 

 
 
 
(20171018)