波乱に満ちた1日を終えた時に思ったこと
職員室に連行され、先生たちが私の持っている書類を確認するとやっと状況を理解してくれたようで、私の行くべき教室に連れて行ってくれました。私は泣くのを我慢するのに必死でした。教室に入ると少し遅れてきた私をみんなが見たのですが、特に歓迎という感じでもなく、先生が出席簿を見て、「あーこの子ね。OK」という感じで私に座るように促しました。座席も特に決まっているわけではなく、毎回自分で空いている好きな席に座るのです。何もかも自分次第。それから6限目まで私はどう過ごしたのか実は何も覚えていません。用意していた自己紹介の英語も一度も言う機会はありませんでした。ランチの時間に一人で何を食べたのかすらまったく思い出せません。後でわかったのですが、ここにいる日本人は同学年におとなしい男の子が一人だけでした。後々知り合いにはなりましが、特にすごく仲良くなったわけでもなく、いろいろ教えてくれるわけでもなく、廊下で会えば日本語で世間話しをする程度でした。なんとか初一人登校日の全ての過程を終え、帰宅の時間になりました。6限目終了のチャイムが鳴るとみな一斉に駐車場に向かいます。駐車場には何十台ものスクールバスが止まっています。そういえば朝36番のバスに乗ったことを思い出し、そのバスを探し始めました。しかし、どのバスを見ても36の文字がありません。このバスを逃すと私は家に帰る手段がありませんでした。1台しかない車は父が会社に乗って行って家にありません。80年代の後半は携帯どころかポケベルもありません。あるのは公衆電話のみ。どこに公衆電話があるかも、かけ方もわからなかったですし、かけたところで母は車もない(のちにもう一台買いましたが)。だったっぴろい郊外でタクシーなんか走っていません。私はパニックになりながら、バスを誘導しようとしている女性に聞くことにしました。私が言えたのは「ウエア・イズ・サーティーシックス」。これだけです。しかしその女性は「hu?」と聞き返してきます。もう一度言っても通じません。私はあわててノートと鉛筆を出し36と書きました。すると女性が「Oh, Thirty six!」と言ったです。いやさっきそう言いましたけど・・・それすら通じない・・・すると女性が建物の方を指差しました。なんと私は朝下りた側と反対の出口に出ていたのです。アメリカの公立高校は無機質な2階建のだだっ広い箱のような建物で、方向音痴な私は中にいるうちにどっちが来た方向かわからなくなっていました。しかもスクールバスが裏玄関にも何十台も止まってるなんて、どんな広い国なの。。。私は夢中で校舎の中を横切り真反対にある出口を目指して走りました。そこにも何十台ものスクールバスが止まっていて今にも出発しそうです。私は誘導係に36と書いてあるノートを見せると、その人が慌てて一つのバスを止めました。「あ、朝の運転手(女性)だ!」私はすでに走り出していた36番のバスに乗り込み空いている席にとにかく座りました。するとその運転手が私に向かって甲高い声で何か怒ってます。多分、「バスの出発時間までに来ないとだめじゃない!」とか言っていたのだと思います。私はもう茫然と席に座って何も考えられずに荒い息を落ち着かせるしかありませんでした。同乗者の生徒達は皆、特に何の関心もないように座っています。自宅近くにバスが近づくと母が心配そうにバス停に立っているのが見えました。私はバスを降りるまで泣くのをこらえましたが、バスを降りた瞬間涙がポロポロこぼれ、1時間ぐらい何も言わずに泣きじゃくってしまいました。その後のこともあまり覚えていません。こうして一人で登校した初日は波乱に満ちたものになりましたが、私はここから絶対に逃げないとなぜか泣きながら心に誓っていました。また、日本で学んだ英語の意味の無さを実感していました。つづく