これでいいのだ Sub blog  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ -2ページ目









軽い風邪をひいてしまいましてお腹がすっかりゆるくなってしまいました。スーパーで買ってきたレトルトの雑炊がうまいうまい。知識としてしか知りませんけれども、雑炊といえば戦後の闇市や焼け野原をイメージ致します。あまりふだんは食べませんよね。今はもうお湯を沸かしさえすればすぐにでも食べることができますが、何も無かった時代にやっとありつけた雑炊はどんな味だったのでしょうかね。
少年たちによる歯止めのきかないいじめ、というよりは殺人にまで発展してしまう暴力猟奇事件、その衝動。地位も名誉もある方の転落。芸能界での解散や不倫騒動。中国経済の失速。北朝鮮の弾道ミサイル。南朝鮮の反日教育。日本に住んでいる朝鮮の血を引く人々の動向とその思い。ヘイトスピーチと。
日本は平和だとはいいますけれども、その基盤が盤石とはとてもではないが言い難く、幸福を享受している層の陰で今日も貶められている若い世代の実態があります。
このブログでは童謡を振り返ることによって、日本が失いつつあるもの、失ってしまったものを感じてきたのですが、さらにそれがより色濃く表れているのが軍歌でした。
人類の歴史において戦争がなかった時代があっただろうか?と。殺し合いや侵略が起こらなかった時代があったのだろうか?と。常に世界のどこかで様々な紛争の絶えることがない。そしていつもいつも弱者は理不尽な搾取や辱めに対して為す術も無く受け入れるしかない。不条理な現実に流す涙が枯れることがない。迫り来る他国の脅威から大切なものを守るためには戦わざる得なかった人類の血塗られた歩みがあります。


英霊とは、他者を救うために命を賭した人々に与えられる敬称ですけれども、先の戦争で若い命を止むに止まれず桜の花のように散らして行かれた方々が、もし死後も魂の存在として在り続けているとしたら、どのような心境、心情であられるのか?
そして戦後経済的復興は遂げたけれども現在の日本の国状を眺めた時にどのような思いが胸に込み上げてくるのだろうか?と思うのです。
もしかしたらですが、この世からだけ戦争を眺めれば、そこにあるのはこの世の地獄絵図でしかない。けれども家族を思い、国を想い、命を捧げるような心境にあった人々があの世から見るならば、この世での経験は忘れがたく、肉親への想い、故郷への想い、生きていた時間への想い、それは自分の命と引き換えにしても惜しくはない、とてもかけがえのない強烈に魂の奥底に刻まれた体験なのかもしれないと夢想致します。つまり戦争自体は理不尽で不条理なものでしかないけれども、体験としては無駄にはなっていないのではないだろうか?と思うのです魂にとっては。





明治維新=朝鮮の民によるクーデター説



さてなぜにアジアの近隣諸国とは関係がこうまでねじれてしまっているのでしょうかね?戦後のいきさつと言えばそれまですけれども、たとえばネット上の情報としまして「伊藤博文が孝明天皇を殺害し、山口の乞食を孝明天皇のご子息と入れ替えて、明治天皇と偽証させた。」というものがあります。現天皇陛下も朝鮮の民ならば、政治家もヤクザもマスコミも朝鮮の民に支配されているという情報です。この説によりますと話は明治維新にまで遡ります。戦後からではありません。
徳川将軍家が没落しまして、政治経済社会が明治帝のもと天皇親政に戻ったと。そのきっかけを作ったのが薩長同盟なわけですが、彼らこそ当時エタと呼ばれていた朝鮮系の民で、薩摩藩=鹿児島県、長州藩=山口県には同じ「田布施町」なる名前の町があり、彼らはその部落出身者というのがその根拠のようです。つまり被差別部落によるクーデターが根底にあったというわけです。

・山口県の田布施町出身の有力者(※敬称略)
伊藤博文、 幸木戸一、 宮本顕治、 河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣。岸信介、佐藤栄作、安倍晋三(田布施一味の末裔)
・鹿児島の県田布施町出身の有力者(※敬称略)
東郷茂徳(終戦時の外相)、小泉純也(小泉純一郎の父)

もちろん真偽の程は判りかねますけれども、あってもおかしくない話ではあります。さらに彼らの背後には、ロスチャイルド系のユダヤの民の陰があるそうです。一つの情報です。





反日感情の裏にある意外なものとは?



名越二荒之助(なごふたらのすけ 1923年3月14日 - 2007年4月11日)
(日本の学者、評論家。保守派の論客。元高千穂商科大学教授。元イオンド大学非常勤講師)
という方の興味深い貴重な記述がありますのでここにメモしておきます。

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戦後日本は次第に中、韓両国から内政干渉をされてきました。 教科書問題から最近は靖国神社まで。私は特に韓国には度々行きますので親しい人が多いのです。 自宅を訪問した時などには本音を聞かせてくれます。彼らは日本が恐ろしいのです。彼らは言います。 「今はおとなしく、呆けた格好してお詫びばかりしているが、『世をしのぶ仮の姿』で日本人が本当に目を覚ましたら恐ろしい。 あれだけの大戦争をやって最後まで戦った。太平洋からインド洋にかけて、あんなスケールの大きい機動作戦を敢行した民族はこれまでいなかった。 日本人が目を覚まして本気になったら何をするか判らない。靖国神社は日本人に内輪ゲンカをさせるのに格好の材料だ。日本人が一つに団結したら何をするか判らない。内輪ゲンカをさせておかねば、枕を高くして眠れない」と。私が「毛沢東は朝鮮戦争の時、韓国に侵略したではないか。なぜ中国に抗議しないか」と言うと、「中国は強し怒るから、できない。しかし日本人はすぐにお詫びする。いつまでも頭を押さえておかねば危ない国だ。日本人の魂を 眠らせておく必要がある。日本人に教えてあげよう。中韓両国に文句を言わせない方法がある。それは日本がもっと強くなることだ。日本人が強くなったら韓国はみんな親日に変わるよ。かつての日韓がそうであったように」と。
(※引用終)





戦後繁栄のかげで大和撫子は何処へ行った・・・



素直な心で軍歌を聴くならば、戦意高揚のための歌といいますけれども、現在では失われてしまった、あるいは眠っているのかも知れませんが、気高い精神性を感じることができます。もちろんそれだけではなく、日本人の全体主義と云いますか、猪突猛進する危うさも同時に感じてしまいますけれども。
ときおり芸能界の醜聞が聞こえてまいりますよね、そこが朝鮮の民に支配されているかどうかは横に置くとしましても、暴力と犯罪行為の巣窟のような魔境になっているようです。華やかなアイドルやタレントさんに憧れるまだ何も知らぬ若い世代が、その毒牙のターゲットにされております。
薬物使用にも共通することですが、初めは軽い好奇心です。軽い気持ちでスカウトマンと契約してしまい殆ど無報酬でいかがわしいビデオ撮影されてしまう深刻な被害があります。手口は法の隙間をかいくぐって巧妙化しております。
大和撫子という言葉も愛国心という言葉も、大和魂という言葉ももはや死語になってしまったかのようです。なにも清く生きて結婚までは純血でいて愛する人に操を捧げるべしという観念をもっているわけではないのです。自分の選択ならば、芸能界であれ、キャバクラであれ、ストリップであれ、AVであれ逞しく生きればよいと思っていますが、そういうことではなくて、本人の無知と困窮に乗じる形で契約締結させる手口が悪質なのです。先方には弁護士を付けていることもあります。違約金要求や様々な脅迫によって、相談する術もなく泣く泣く惨い企画に出演させられてしまうのです。
ひとたびAV・ポルノOKにチェックを入れようものなら、拒絶の権利は条項には当然ありません。周到に契約書条項は用意されていますから。表面上は「タレント契約」「営業委託契約」になっております。契約を無効にはできず高額な違約金を請求される仕組みになっています。
騙される女性も、騙す側もどちらも地獄。不幸にして契約させられてしまったら、死にものぐるいで助けをもとめなければなりません。なりふり構っている場合ではありません。





迷走している大和魂と愛国心



なんで世間を知らない女子をたぶらかして辱めて金儲けして、そんな事ができてしまうのでしょう?人間として最低級の行為です。つまりそれまで根本においていた精神を失ったならば、そこは奪い合う社会になってしまってそれが当たり前なのであり、疑問すら抱くことがなくなってしまうという事なのです。日本社会は競争原理によって動いているのではなく、搾取社会であるというわけです。
われわれ戦後世代は大和魂という言葉を聞いたことはありますけれども、それが何かを知らないし、知ろうとする前にそれは危険な言葉というフィルターがすでにかかってしまっておりますしね。
近隣諸国の方々が、日本人を眠れる獅子にしておきたい理由は、日本がかつて牙を剥く危険な獅子であったからでしょう。逆に考えますと、日本人が本当の大和魂や愛国心に目覚めて、心の中の悪しき獣を追い払い、真の平和を望む民族になるならば、それは歓迎されるのだと思われます。

<大和魂>の初出は万葉集だそうです。
そしてそれは、
<漢才>=<漢学に熱中する学問馬鹿の男>に対する言葉で、
<大和心(魂)>=<四季を愛する女心>というものです。
元々は、自然を愛し慈しみ、調和する心。それは大自然から学ぶ心のはずです。
もののあられを感じるわびさびの心であり、育てる母性を尊ぶ心でしょう。
知識や学問は中国から入ってきましたが、それを基盤としながらも日本の実情に合わせて政治や生活に応用していくその根幹に置いたのが元々の<大和魂>だったようです。
それが戦時中に戦意高揚のために意味が変容していったようです。
つまり言葉は生きておりますから、日本人は未だ本当の意味での大和魂を国民性として実現していないのです。
中国儒教の徳目に習って<大和魂>の徳目を記せばこうなるかも知れません。


       <和>=自他をわけず争わぬこと

       <誠>=まごころを抱く嘘偽りのない心

       <潔>=焦点を定めた迷いのない心

       <清>=私利私欲をはなれた執着しない心

       <情>=自分のことのように他に心を重ねること

       <尽>=すべてを出しきっても惜しくない覚悟

       <根>=持続する不退転の意志

       <誉>=恥とは何かを知り礼節をわきまえる心

       <愛>=かけがえのないものを大切にし育てること




日本からスタッフを招いて怪獣映画の大作を作った北朝鮮や日本のアニメを親しんでいる韓国が本当に日本人のことを心底嫌いなのだとは思えないところがあります。金正日は日本人だとする話まであります。
いえそもそも日本人とは何なのでしょうか?
聖徳太子さまも渡来人であったという説もありますよね。古来より日本は様々な民族のるつぼなのであって血はすでに混じり合っているような気がしています。
天皇陛下がすでに朝鮮の民とすり替わっているのですか。とても厳しいお話ですよね。
けれども思えばユダヤの民も、エタ扱いされていた朝鮮の民の部落のクーデターもそれはそのような差別する理不尽な社会構造から端を発している。彼らからすれば何としても生き延びるしかなかった。人類の歴史は全て食うか食われるか弱肉強食の地獄の道を歩んできました。それは人の道ではありません。動物以下の獣の道であります。それが子ども達の凄惨な事件や、AV業界の在り方の中などに表れていて、われわれは苦しんでおります。
日本における凶悪犯罪の多くは朝鮮の民であるという指摘もありますけれども、そのように追い込んでいるのは日本に蔓延している病んだ空気であり、大切なことを見失っている日本の風潮があるからではないのだろうか?
歴史の経緯をあれこれ詮索し反目していても何も根本的には解決しません。少なくとも反日感情や反日教育に敵対して感情的な反発をしていても溝は深まるばかりです。
天皇陛下が仮に朝鮮の民であっても関係ないのです。血ではないでしょう。日本人とは日本に住み日本を愛するものたち。日本文化の申し子。それでよいのではと。日本という器は、民族主義を超えることを願いとして世界の雛形として置かれているのではないでしょうか。大切なのは不幸な歴史の経緯ではなく、闇を光に転換できるチャンスの<今>なのです。
<日本に住むものが日本人としての望まれる精神性を獲得すること>が先決です。
哀しく痛ましい事件のあれこれを根本的に解消する道は、遠廻りであってもそれしかないでしょう。朝鮮の民と日本人が手をつなぐことが世界を平和に導く大きな鍵だと思われます。日本に住む朝鮮の民も日本の民も差別なく一つになるべきなのです。
と云いますか差別をしているのは人間の心なのであって、血や遺伝子に区別はあっても差別はないはずなのですけれども。











この桜吹雪に見覚えがねえとは言わせねえぜ!



大好きだった初代遠山の金さんこと中村梅之助さんが、18日午前7時25分、85歳で亡くなられました。肺炎とのことですが、長男の中村梅雀さんによりますと、60代をこえてからは、入退院を繰り返し、度重なる手術によって身体はボロボロだったそうです。ご冥福をお祈り致します。TVであまりお見かけしなかったのは、元々歌舞伎役者だったからなのですね。5月の劇団前進座の85周年の舞台に立つ思いを語っていたそうですが、わたしの記憶の中では、あの頼もしい遊び人の金さんのままです。
折しも昨年の9月から、CSの時代劇チャンネルで、歴代の遠山の金さんを放送しておりまして、この初代金さんを毎日放送中なのです。子供の頃にみていた印象と若干ちがいまして、実に包容力のある暖かな表情と同時に、哀愁も感じますね。殺陣の間合いなどに美学を感じますね。ここらへん歌舞伎の影響なのでしょうか。


時代劇のよさは勧善懲悪の割り切りの良さですね。因果応報で悪に手を染めるものは、正義の名の下にバッサリと成敗されるというわかりやすさが信条であり快感です。どの時代劇も大概そういったパターンかと思われますが、現実の人の世は、悪がはびこり正直者が馬鹿をみる現実が蔓延しているからこそ、フィクションの活劇において人はこういうものを好むわけですよね。
この世は実に理不尽であって、誠実さや努力といったものが、その蓄積分だけ正確に認められて、取り立てられて経済的にも反映されるのなら、社会に悪を為す人はそうは出てこないように思います。ずる賢く立ち廻る人間が得をするように思っているからこそ、日々のいじめの現場でも、職場であっても、自分に火の粉がけっして降りかからないように動きます。だれもが体験的に、人生は理不尽で不条理なものであることを、身に染みているからこそ生きるためにみんなずるくなっているのです。
そして同時にそうであってはならない、世の中は正しいものが正しく裁かれる世であってほしいという願いが、時代劇の主人公を生み出し、時代劇が市民権を得ている理由のような気がします。時代劇は社会において正義が実現して悪を駆逐してほしいという願望の産物なのです。
まあそのようにわたしには感じるのですけれども、しかしこの時代劇に描かれている価値観は、100年とか200年とかむかしの当時の正義であり価値観です。これを現代にそのまま当てはめられません。親や大切な人の敵討ちが美徳であり奨励されていた時代の価値観です。現代でそれをやれば当然、理由の如何に関わらず殺人罪です。
相手が法を犯した犯罪者や、掟それそれで悪を為している悪党であっても、それをバッサバッサ成敗していれば只では済みません。われわれは時代劇を当然フィクションとして楽しんではおりますけれども、こういうものが受ける背景には、心の奥底に善と悪と物事を二分して、割り切ってそれ以外には考えられないような感覚があるはずなのです。





けっして怒らない驚くべきひと



ゆうべ、動画サイトで「たけしのTVタックル」の「韮澤氏vs大槻教授のバトル」をみまして腹を抱えて笑いました。へたな漫才よりも大笑いできますねえ。なんでこんなにおかしいのでしょうか。その内容はたいていUFOとか金星人や幽霊、怪奇現象や超能力は、本当か否か?その永遠にかみ合わないトークの応酬なのですが、まぁその題材の真偽は横に置いておきまして、何本もみているうちにふとあることに気がつきました。
オカルト現象の否定派も肯定派の人たちも議論が白熱してまいりますと、どうしたって相手を罵倒し始めます。相手に言葉の圧力をかけて、時には人格を否定するようなことを口にして、何とか相手をやり込めようと攻撃的になってきます。ある場面では、途中退場する人までおりました。
けれども、この韮澤潤一郎さんという方は、ムーという雑誌の編集長をやっている方ですが、自分が追い詰められて、その主張がなんだかあやうくなってくきましても(その辺りの返しが面白い)相手を罵倒したり、ひどい言葉を放ったりすることがありません。
全部の動画をみたわけではありませんが、わたしが観たなかでは、一度も相手を呼び捨てにしたり、汚い言葉を言ったりするような場面はありませんでした。
これはもしかしましたらすごい事ではないでしょうかね?たとえば、あの世があるかどうかなんて事は、そうそう証明できたり、わかったりするものではないでしょう。時がきて死ねば誰もがわかることではないでしょうか。あるいは死んで消えてなくなるのなら、認識する自分が消えてなくなるのですから、いずれにしましてもどうでもよいことです。
人間は生きている<今>がすべてです。その<今>におきまして、意見や価値観の相違は如何とも為がたいわけですけれども、この韮沢さんのようにけっして怒らずに、相手を貶めるようなことも言わずに、それが正しいかどうかは別にしまして、自分が信じたことを淡々飄々と主張する姿には感銘を覚えてしまいます。なによりもこの方には力みのない愛嬌があります。人をなにかホッとさせてくれるものがありますね。なんでしょうこれは。






さて日本人が、日本人みなが共通して使えるような言葉=日本語がまとまってきたのは、やっと明治時代になってからのことです。時代劇のあの時代には、上流階級の山の手言葉や庶民のべらんめえの下町言葉があり、明治時代に入ってから統一された言葉になってきたようです。そのことと日本の近代化は同時に起こっております。
当初、文字は中国から漢字が輸入されて、漢文では話し言葉を翻訳するのが難儀なので、カタカナやひらがなが発明されてきました。
十七条憲法・大宝律令・古事記・万葉集・日本書紀と文字の発達と共に文化が形作られ、明治以降に日本流の漢字が中国に逆輸入されて、国名にはまで入っております。文化は相互に入り交じっております。
またウリジナルと最近いわれ出しましたけれども、様々なものが韓国発祥であるという韓国側の主張もありますよね。
なんでも桜や寿司、居合や柔道、相撲、そして茶道や歌舞伎と、こういうものが、他にもあるかもしれませんが韓国から生まれたと言っているらしいですね。
それぞれの本当の起源がどういうものなのか?
それを正確に特定するのはむつかしいはずです。味噌や醤油なども中国にも似たようなものがあるそうですし、鞠蹴り遊びなどもどの国にもあり、それがサッカーの起源だと主張できるものなのかどうか。同時発生的にも起こりうるものであり、文字にしましても、その国独自のものに近隣諸国のものが混じり合い発達してきていますので、あるものの起源をそれぞれの国限定で括ることは、あまり意味のあることではないような気がします。影響し合っているからです。
そういう意味においては、韓国の我が国起源説=ウリジナルも頭から否定できるものではない。ただしだからこそ、それを殊更に主張するのは混乱の元でしかないでしょう。問題はその主張の動機に何がかくれているのか?が肝心なわけですが。
竹島問題=独島の領土問題。ロシアの国後島と同じくです。日本の主張としましては、日本の管轄していたものを、一方的な武力の実行支配において現状変更したものであると。
竹島問題=独島の領土問題にしましても、慰安婦問題にしましても、両国の主張が真っ向から対立しており、主張が噛み合わない。侵略だったのか?併合だったのか?
当時の事を知る人がどんどんいなくなり、記憶は薄れ、記録は改竄され、対立する意識を植え付ける教育と。様々な解釈の余地がある現状で、一体どこに解決の糸口があるのでしょうか?





富士の高嶺に降る雪も



この「お座敷小唄」の一番はとても含蓄のある歌詞になっております。
芸者さんの心情を綴っておりますけれども、<富士の高嶺に降る雪>というのは妻の座のことのようです。<京都先斗町に降る雪>というのは芸者の自分のこと。どちらの雪も溶けて流れりゃみな同じと括っております。
人間命の寿命がきますれば、みな同じ、この世の事は夢の如くでしょう。UFOが実在するのかどうか、議論するのもそれぞれの立場上しかたがないのかも知れませんが、肝心なのはその時の自分の<心の在り方>なのであり、問題なのは物事の真偽の方ではないのです。
一体自分は本当にはなにを望んでいるのだろうか?
世界の平和なのか?自国のみの利益であり親族だけの平和なのか?
正しいことだからといって相手を罵倒している自分は、平和を望むに価するのだろうか?
人類全体の幸福を年頭に置いて、それでも独島や国後が自国だけのもので、強制連行があったと主張するならば、それもよいかも知れません。何が本当のことなのか、当時の当事者であっても立ち位置によって様々なのではないでしょうか。
時代劇が本当に教えてくれているのは逆説的に<人間は人間を裁けない>ということなのです。人間が人間を一方的な正義感で成敗してはならないということなのです。それがいつも時代劇を楽しみながらも心のどこかで感じてしまう違和感なのです。
ですからそれは人間が捨てなければならない時代ものの価値観なのです。
何処かの国だけが一方的に悪いなんてことはあり得ません。どの国も同じように血塗られた道を歩んでおりますから。
人間を裁けるのは、良心という内なる大親分だけでしょう。






人生の別れはいつも突然に



いつものように「行ってきます」と出かけていった、わたしたちの愛しい人は、いつか帰ってこなくなる。悲しいかなそれがこの世の約束だったのです。わたしの父は、わたしが二十歳の時に、あるいは21歳の時だったかもしれませんが、7月の朝から暑い日に会社で突然亡くなりました。
両親は離婚していてその頃は、別々に暮らしておりましたけれども。突然の別れは、心が引き裂かれるような苦痛をもたらします。出会いが大きければ、大きいほど激しいいたみに襲われます。父と子として出会えて、一緒に暮らしていられたのは、ほんの十数年のことです。家族であっても、ほんのつかの間しか居られない、すれ違うようにしか出会っていられない。それは大切な大切な時間でした。
報道等ですでにご存じかと思います。長野・軽井沢町でスキーバスが転落、大学生など14名が亡くなられました。2名の運転手は65歳と57歳と高齢に差しかかる年齢。65歳の運転手は運転に不慣れだったという情報もあります。研修も不十分で、行程表とは別ルートを走っていたようです。さらにこのバス会社は、社員の健康管理不十分ということで、事故の二日前に国土交通省から処分を受けてもいました。ガードレールに接触するまでの現場には黒いタイヤ痕らしきものも確認できると。
現時点において、まだ事故原因は特定されておりません。しかし2名の運転手の過失がどのようなものであろうと、バス会社の運営方針が<安全最優先ではない>ことに疑いの余地はなく、事故は起こるべくして起こったと云わざるを得ないでしょう。


わたしは今、組合で安全の係りをしておりまして2年目に入りました。歴史のある組合ですので、毎年やることはほぼ決まっておりまして、その儀式を用意する準備だけでも三役の立場の人はたいへんです。安全の係りはそこまで難儀ではありませんが。
バイクや自転車を使用する業務ですので、会社は安全に対する様々な取り組みを我々に課しております。それが確かな成果を上げているのも事実です。けれどもその一方で、災害が多発しているのもまた現実なのです。それは組合が憂慮すべき事態であると緊急事態宣言を出すほどのものなのですけれども、出て来る対策はどれも、これまでのものの延長線上にあるものばかりで、会議や安全活動を増やすという発想でしかありません。
集いが増えて、煩雑な手間ばかりかかるようになり、それでも災害件数が減る方向には中々なりません。
本当はこれまでと同じやり方では足りないのですよ、と事態が呼びかけているのだと思うのですけれども、安全に対する取り組み方も活動も、これまでと同じことしか出来ていないのです。
そんな中、ある支社で画期的な取り組みが考案され実施されました。それは組合員一人ひとりが、安全に対する思いや考えをメールで順繰りに発信するというものでした。これはコペルニクス的な発想です。これまで会社や組合から、組合員に向けて一方的に指導し発信していました。事故例を検証・検討する取り組みにしましても、どうしても客観的になってしまい、自分事としてその事例を捉えるという視点に欠けていたのが、これまでの取り組みの盲点だったのです。そこに光を当てて、安全の取り組みを全員がまず自分事として受け止めて、能動的に関わる、というそれは画期的なアイデアだったのです。



実際にその取り組みを続けた結果、その支社では災害の減少に大きな効果を確認できたのです。
全社で災害が増えており、これまでの取り組みだけでは、それまで以上の成果が見込めないことが判っている状況があるのですから、全支社でその取り組みを導入すれば良さそうなのですが、そうはなりません。
なぜかと申しますと、すでに組合側の人間に、そのような仕組みを取り入れるとなると、自分の仕事が増える、今でさえ大変なのにこれ以上は無理であるという、それはヒステリックなまでの感情的な反発があるからなのです。
そこにはものすごい思い込みがあります。それがそんなに手間のかかることだとは思わないのですが、とにかく手間が増えるのはいやなのです。そのわりには煩雑な組合のセレモニーの仕事をどうにかしようとは思わないのです。もう決まった事を決まったようにやっていればそれで良いと思っているのでしょうかね。
いつもいつも目先の事しか視野に入っていない感じですね。目の前の人たちに気に入られること、うまくやること。あるいは力のある人に取り入り気に入られるように動くこと。そういうことにしか頭が働かないようです。
組合の儀式をどんなに滞りなく行ってみたところで、それはそれだけの事で、組合員の安全には直接的になんら貢献するわけではありません。組合員が組合に望んでいるのはそういうことではなくて、自分たちのために組合が会社に働きかけてくれることでしょう。
組合の係りの仕事というのは、組合員一人ひとりの利益・全体の利益を最優先に考えるべきなのです。けれども実際には、自分の手間や目先のコストのことしか眼中にないかのようです。




民主主義が世界を滅ぼすわけ



うちの会社でもこのような実態ですので、おそらく他の組織であっても似たり寄ったりなのではないでしょうか?
乗客の命に責任のあるバス会社であっても、優先されていたのは、コストの削減や利益の確保であったのでしょうか。そしていつもいつも尊い犠牲が出てから後手後手で対策が講じられます。
たとえ手間のかかるものであったとしても、まだ最悪の事態が現実になる前に、これ以上取り組めないというところまで、対策を講じるという智恵を失ってしまっているのです。
またこれが民主主義の悪しき実態でもあります。
民主主義は一般的に、素晴らしいものであると思われておりますけれども、とんでもないことです。それは便宜上採用されているだけで、人類が民主主義を後生大事にしている限り、世界から混乱はなくならず、また平和も遠いものになったままになるでしょう。
なぜそう云えるかと申しますと、民主主義の多数決というものは、少数派の最もよい選択を無効にして決して採用できなくしてしまう悪魔の法だからです。
腸内フローラの動向を左右する、腸内細菌の割合は、悪玉菌10%、善玉菌15%、日和見菌75%と言われております。おそらくそれを人類にも当てはめることが出来ると思われますけれども、善玉菌15%の意見を日和見菌75%が理解不能で悪玉菌10%と結託するならば、環境を救うことになる最善の策は永久に陽の目を見ないことになります。
民主主義というのは、全体の意識レベルが高い次元にある場合にのみ有効なものでしょう。その場合ならば全体の秩序に貢献する選択も可能ですけれども、理の理解度が低く、意識レベルが幼い環境で多数決を行えば、どういう結果になってしまうのか?火を見るよりも明らかではないでしょうか。民主主義という言葉は美しいのですけれども、多数決主義が癌なのです。
スター・ウォーズの世界は暗黒のシスが頂点に君臨しているから世界が混乱していたのであって、あれがジェダイの長が治めていれば、かってなかったほど理想的な帝国になっていたのだと思われます。元老院議会主義・評議会主義で方針を協議したならば果てしのない論争と腐敗の温床を生むだけで、やはり最善の選択などは夢のまた夢でしかないのです。
ひとつの家庭で、旅行に行く場所ぐらいのことなら家族全員で話し合って決めてもよいでしょうけれども、もっともっと大切なことを決めるのに、一々家族全員の承認を得るような形にしてしまいましたらば、よくない結果にしかならないでしょうね。大切な舵は家族のことを誰よりも思う長が握るべきで、それが家族全体の幸福なのです。
かのバス会社で日々現場での方針がどのように決められていたのか、わたしには大体想像できます。
ひとりが全体のことを考え、組織が一人のことを思わない環境、会社が顧客の利益や安全を考えない民主主義が如何におそろしく危険なものなのかは、かのバス会社の会社方針、その悪しき実態を見るまでもないことなのです。
人間はその場の空気にいとも簡単に染まってしまって中々それを振り返って、一から点検するということができないものだと思うのです。








「里の秋」に込められた祈り



童謡というものは、聴こうと思って聴くことは少なくていつも何気なく聴いているものでありました。童謡の歌詞をうつくしいと思うこともありましたし、切ない気持ちになることもありましたけれども、こんなに悲しく切なる想いを込めて作られたものだとは知りませんでした。
童謡「里の秋」は、1945(昭和20)年12月24日にNHKのラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」で川田正子(当時11歳)に歌われるために曲が作られたのだそうです。終戦を迎えた年の冬ですね。クリスマスイブでもありました。クリスマスどころではなかったでしょう。
その日の午後1時、浦賀港に南方で戦った兵士をのせた引き揚げ船が入る予定でした。彼ら復員兵を迎えるために、その一回きりの特別番組のための曲が「里の秋」だったのです。
この番組での反響が大きく、ラジオ番組「復員だより」の曲として使われました。
19­48年(昭和23年)になりますと、日本コロムビアからSPレコードが発売されています。小学校の音楽教科書にも長年採用され、2007年(平成19年)には「日本の歌百選」にも選ばれているそうです。
けれどこの唄の元々の歌詞は「星月夜」といいまして、父親の武勲を祈る戦意高揚の内容でした。それを番組に合わせて歌詞を変えまして、同時に川田正子さんが歌う曲がつけられます。
作詞者の斎藤信夫は、終戦後に責任を感じて教師をやめていたそうです。その詩が作曲者の海沼実に見出されて、電報を受け取った斉藤はしかし中々筆が進まず、曲名が「里の秋」に変えられたのも放送当日だったようです。
郷に入れば郷に従えという言葉もありますけれども、人は意識する以前の問題として、みな環境に染まって生きることが先決で、それを点検することができずに、いつでも後から識るものなのです。そしてそれがどんなに悲しいことかを知ることがありません。
一つの組織、一個の会社でもそうです。それが戦争になったとしてもやはり同じことのようなのです。






       作詞:斎藤信夫 作曲:海沼 実
       「里の秋」(1945年版)
       一、
       静かな静かな里の秋 お背戸に木の実の落ちる夜は
       ああ母さんとただ二人 栗の実煮てます いろりばた
       二、
       明るい明るい星の空 鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
       ああ父さんのあの笑顔 栗の実食べては思い出す
       三、
       さよならさよなら椰子の島 お舟にゆられて帰られる
       ああ父さんよ 御無事でと 今夜も母さんと祈ります

       「星月夜」(1941年版)
       一、
       静かな静かな里の秋 お背戸に木の実の落ちる夜は
       ああ母さんとただ二人 栗の実煮てます いろりばた
       二、
       明るい明るい星の空 鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
       ああ父さんのあの笑顔 栗の実食べては思い出す
       三、
       きれいなきれいな椰子の島 しっかり護って下さいと
       ああ父さんのご武運を 今夜も一人で祈ります
       四、
       大きく大きくなったなら 兵隊さんだようれしいな
       ねえ母さんよ僕だって 必ずお国を護ります