京子先生へ
お久し振りです。
先達てお別れして以来、手紙を書く事が出来ず、寂しい毎日が続いています。先生は、新天地に向かわれる旅で充実していると思います。
一方の僕は、先生への手紙を通して思索をする癖がついていて、矢張り、先生くらいのレベルが? 僕には丁度良く、先生への手紙が最も書きやすい様です。 矢張りマインドフルネスだの、セルフコンパッションだの、そういう話も判らないと張り合いが無いというものです。
さて、近頃の僕は、 僕は精神病であり、中年男性ですが、 中年という所が引っ掛かる所です。 青年期のアイデンティティの再定義というのも、中年期の課題とテキストには書いておりますが、僕のアイデンティティは何処かに行ってしまったのか?悩んで居る所です。 或いは先生の存在が一個のアイデンティティだったという事かもしれませんが、いまひとつ努力する気持ちも湧かず、参って居る所です。 兎に角、夢が無くなった。夢が後退した。 というか、夢の話をする人がいなくなってしまった。 他の人にもお世話になっていますが、夢というのではないのかもしれない。 あんまり他の人の事は書けませんが。
兎に角、ひとつは夢が後退している事と、もうひとつは中年期をどう生きるかと考える所です。 こうして先生への手紙を久し振りに書き出すと思い出しますね。中年期で細ってきても、夢を忘れず、頑張るという事を。僕の夢は執筆する事でしたし、丸で総ての望みが叶わなかった訳でも無い。よくやった側面も大きい。だから引き続き執筆する事には意義があるでしょう。そう「意義」がある。だから1日10分の執筆と言っていたけど、それを引き続き頑張る事には意義がある。そう、また感じ始めています。先生への手紙で、夢を取り戻せます。 一方で、中年期ですね。今僕は43歳でレビンソンか何かでは 中年への過渡期という段階ですが、何だかモヤモヤします。ひとつはあらゆるものに慣れて耐性がつき、少しの事では感動しなくなってしまった事かもしれません。何か、なにをしても楽しくないというか。(ポケモンZAは楽しいけど)で、どんどん時間が経つのが早く。それでいて新しい事にチャレンジする勇気もなく。宙ぶらりんです。 ひとつは、「自分は」そうやって後退していく様な年齢になってしまったかもしれないけど、「身近に居る他者は」楽しむ事が出来たり、僕なんかとでも関わりたい人も居て、「身近な他者のニーズを満たす活動に、多少時間を捧げる」というのを中年期はやったらいいんじゃないかと昨日こそ考えていた所です。自己の満足を求める事は有限ですが、周りに居る沢山の他者は無限な訳です。その無限なる他者に向けて働きかけていく事は、無限に働きかける事と同義であり、それは僕自身の憂さを忘れる事にも繋がらないかと考えて居る所です。無限に出来る事は、無限に従事し、コツコツ活動していけますからね。 ただ僕自身の満足というのは低下している気もします。何か満足出来ない。テキストにも書いている通り、自分は「これでいいのだろうか?」と考えてしまいます。その答えはまだ暗中模索中です。判りません。
昔思春期の只中に居た頃、思春期の事が何だったかなんてきっと判らなかったのじゃないか?と思うけど、今中年期に只中に居て、中年期を言語化する事は難しいのではないか? 自分自身、中年期とかいうのは、アウェアネス出来るものなのか? 兎に角最近は中年期という事を考えるのが課題です。
京子先生などは僕より年下ですから、京子先生も中年期はまだ判然としないでしょうが、いずれそういう事も考えるのではないでしょうか。或いは、今回新天地に向かわれた事自体、既に一種の成人後期の「次」の段階に踏み出したという事かもしれませんね。
お互い、まだ頑張りましょう。
僕は引き続きブログの上で、あなたの魂と共に頑張りたいと思います。
夢を追うには仲間が必要ですね。