あけましておめでとうございます。
大掃除できたでしょうか。
なぜか同じことが二回あがっていた。(内容変えたはずなのに・・・)
意味がある、ということに(笑)
いいこと起きないかなぁ。
いい思いできないかなぁ。
人は思う生き物です。
悪い事ではありません。
私もあると思いますが、なんていうのでしょうか。
いやしいことだと教わったので
無意識にブレーキがかかります。
(かといって質素、清廉潔白な生活をしているわけではありません)
でも、ばくぜんと、常に、やみくもに
なにをみても、だれをみても
「いいなぁ。ほしいなぁ」
とはまったく思いません。(こっちはほんとです)
ものすごいブレーキがはたらくといいましょうか。
卑しい。下品。
これも神様は大きらい。
卑しい人。下品な人ってどんなひとでしょうか。
ほしがるひと?ことばが汚い人?
いいえいいえ。
自分がそうだと自覚がまったくないひと
です。
かんがえてみてください。
この言葉ってあまり自分を表現するときにつかいません。
自己紹介で使いますか?
自己紹介は人前で自分を簡単に知ってもらうことばです。
これにあてあめると、自分がどう見られたいのか、見てほしいのか
よくわかります。
例えば
「私は引っ込み思案で」「人前にでるのが苦手で」→かまってちゃん、わがままです。
「話すのが苦手」「あまりかんがえたことなくて」「ぶきようで」→プライドが高い。
「〇〇だけがとりえ」「〇〇がいいねといわれます」→無意識な人依存。保身が強い。
「えー・・・じばらくもじもじ、わらってごまかす、きょろきょろ」→自分大好き、自分が損することが大きらい。人を利用することしか頭にない。
「わたしは、生まれは〇〇、学校は、〇〇を経て・・・(自分歴史が多い)」→中身が空っぽ。虚栄心の塊。肩書、性別で人をみる。
これがすべてではないですし、当てはまらない人もいるかもしれませんが
傾向はかなりあてはまるので、いきなり自己紹介ってよくわかるのでおもしろいですよ。
話がそれました。
卑しく、欲深い。
これは私も含めどの人間にもあてはまる。
なぜなら、人とはそういう生き物だからです。
愚かな生き物だから、神様は失敗を許してくださり
誰でも祈りができるように神社があり、訪れることを許し
どんな態度でも、願いでも何も言わずに聞いて(叶えるかどうかは、別)くださるのです。
私たちはどうでしょう。
相手をえらび、態度に文句をいい
内容にケチをつけ・・・・
一人の人間、一つの物、出来事、ことば、考え、場所・・・・
どれだけの我をおしつけているでしょうか。
そうして手に入れたものでさえ、まだ気に入らないという事もあります。
自覚のない人は魂を磨くことはできません。
正しい道へ行く、使命をいただく
しあわせになるための暮らしもできません。
神様、魂の話に関心の高い方は様々ですが
生まれながら、そのような感覚、教えがある方ではなく
興味がある、占い、風水、運気などをきにされるかたは
自分はおろかでも、欲深くも、いやしくもない。
どちらかというと、常識もあるし、慈悲もあるし、おもいやりもある。
と思っているのです。
そしてそういう方は
「自分はそういう(尊い、清らかな)人間だからこそ、神様への興味関心が高いのだ」
と思われているから、修行はまったく進みません・・・・。
いい?神様には、私はおろかだった、欲深かった
必ずそういうのよ、といってもまずここで言葉がでない、思えない、つまる
嫌になる。方がほとんど。
私は人をみると様々なものが浮かびます。
メッセージのようなもの降りてくる、というのでしょうか。
見えるものをお伝えする、した方がいいことをお伝えする
浮かんだことをお伝えする。
いわゆる、こうするといいよ、これはさけたほうがいいよ
〇月に〇〇があるかも。
このような「こうすれば、大丈夫」的なものは素直におこなってくれます。
あとは「聞くだけ」も。
(なんか見える?って質問が一番苦手です。みえますよ、あなたの卑しい品のなさが、といいたくなるので・・・)
自分は愚かで欲深い生き物だという自覚があるからこそ
これが少しでも芽をださない生き方をしたい
正しく、きれいでありたい
そう必死にもがき、悩む。
この選択は神様は美しい、清らかだとおもわれるだろうか。くぅ・・・わかりました・・・
損したー!!と騒ぎながら選ぶことが魂を磨く修行のひとつなのです。
そう、神様は賑やかなのが大好きなので、
欲と闘うお姿も笑ってみてくださっているのです。
もちろん。結果も。
損得勘定ばかりして、
愚かな行為に対する迷いも、自覚もなく
一見平和にみえる善人ぶった行いは
おもしろくもなければ、美しくもない。
神様はただただ、
「汚いもの見せられた、二度とお前のつまらん汚い行為みにきたるかぁ~」
となるのです。
人は愚かで。欲深い生き物。
だからこそ、せめて生き方は
清らかで、正しくありたい。
こう素直に思うことができてやっとスタートラインなのです。
魂を磨き、運を味方につけるための準備ができた、というところでしょうか。
そして、これを一瞬たりとも忘れることなく
心がけ暮らしていけば
何もしなくても自然と関わる人が変わり、物事がかわり
こうありたい、こうなりたい あれがほしい
磨き始めのころ思っていたことが
いつのまにか手に入っていたり、その立場になっていて
そうなって「あれ?そういえばそんなこといってたな」
わすれたころにすべてそろっていたりするのです。
昔そういえば、こうなりたいといってたなぁ。これが本当の「叶った」なのです。
